その他

 手探りで冷蔵庫を探し、中からペットボトルを取り出す。ひんやりとした空気が身体を包み、ここだけ別世界に来たみたいだ、と思った。
 キャップを開けるまで中身はわからない。たぶん麦茶だろうか。口に含んでみるとやはり麦茶で、俺は喉を鳴らしてそれを飲み干す。カラカラに干からびていた身体がみるみる潤っていく。このペットボトルはどうしたらいいだろう? ゴミ袋がこの辺にあった気がする。適当に放っておくか。
「ただいまー。るい、無事~?」
「ウェルカムバック!」
 玄関の方からガチャガチャと音が聞こえ、ミスターやましたの声がした。スーパーの袋の音もする、何か買ってきたんだろう。
 俺は両手を広げておかえりのポーズをした。居間に入ってきたミスターの「なにそれ」という声にけらけら笑う。
「調子はどう?」
「まーったく」
 二週間前、風邪を引いた。風邪をひいてしまったのは仕方ない、人間だから、そんな時もある。幸運なことにライブや生収録の予定はなく、ボーカルレッスンとダンスレッスンを何回か休むだけで済んだ、のだが。三日三晩高熱を出し、汗だくで寝込み続け、あわや救急車といったところで目覚めると。
 世界が、真っ暗になっていた。
「おじやでどう?」
「ナイスアイデア! ミスターの料理ならなんでもデリシャスだよ」
 栄養をとって、よく寝ること。医者にはそう言われたけれど、そんなのいつもしていることだ。先の見えない未来は不安になるだけだから、俺はミスターやましたの家で過ごしている。俺以外の人間の匂いがするところ。
「もう少ししたら、はざまさんも来るから」
「やったあ」
「その間に洗濯物……と言いたいところだけど、見えないとむずかしいよねえ」
「んー、ディフィカルトだね、というかそもそも、いつも任せてたし」
「そうだわ、見えてた頃から洗濯って俺が全部やってたわ」
 ははは、と笑い飛ばしてくれるけれども。きっと彼も、心配で一杯だと思う。プロデューサーちゃんも事務所のみんなもハラハラしているのは知っている。だけど俺たちの仲で、暗い話は似合わない。そのうち治るだろうって医者も言ってる。こういう時は深く悩まない方がいい、楽観的なのが俺のいいところだ。俺は台所まで行って、手伝う代わりに拍手を送る。フレ、フレ、ミスター。
「お邪魔します。舞田君、調子はどうだ」
「ケセラセラ~」
「……まだ、か」
 ミスターはざまが到着した。ああ、いつものメンバーだ。彼らの表情はわからないけど、笑顔でいてくれたらいいなあ。俺はまた両手を前にだして、おかえりのポーズをする。
「るい、なんなのそれ」
「おかえりのポーズ」
「ただいま。舞田君」
「ここはざまさんの家じゃないし」
 ミスターはざまは俺の胸に飛び込んでくれて、あたたかなハグをしてくれた。この調子でミスターやましたのハグもいただきたいところだが、あいにくと料理中で応じてくれなかった。
「今日のレッスンはどうだった?」
「それが、先生も鼻かぜになっちゃったみたいでねえ。流行ってるねえ、風邪」
「我々も気を付けよう」
 俺はミスターやましたのベッドに座って、ばんばんと弾んで笑う。るい、壊れちゃう、というミスターやましたの声と、トントンという包丁の音。生活の音って、幸福の音だ。目が見えなくても、そこにある幸せって、味わえる。
 だけれど。
「ミスター」
「どうした、舞田君」
「ここに居る?」
「ああ。いるとも」
 手を伸ばして空を掴むと、ミスターはざまが手を重ねてくれた。ぐつぐつ、鍋が煮える音もする。
「どこにも、行かないでね」
「行かないとも」
「消えないでね」
「消えない。我々は君を置いて行ったりしない」
 一蓮托生でしょ、というミスターやましたの声も重なって、俺はそっと目を閉じた。真っ暗な世界が更に真っ暗になっただけだけれど、このちっぽけな部屋の中で、三人分の呼吸が聞こえるというのは、なんとも心強かった。
「明日になったら、世界って終わってるかな」
「終わらない。そう簡単に、終わってはくれない」
「終わらないからこそ、歩んでいくんだよ」
 この地球は、俺たちの事情なんて知らずに、今日も明日も回っていくのだ。隕石が命中する確率は低い。このまま、息を続けていくしかない。
「……おじや、おいしいかな」
「おいしく出来てるよお」
「あーんを、した方がいいか」
「はざまさん、るい別に一人で食べられますよ」
 うふふと笑ったら、ミスターたちも笑った気がした。見えなくても、口角は釣られるものだ。
 
 ねえ、ふたりとも。もしさ、俺が今後もずっと、目が見えなかったら。
 左眼と右眼、ひとつずつくれないかな。
 
 なんて、そんなこと。絶対に言わないからね。俺はまた拍手をする。フレ、フレ、俺。
 「ほい、お待たせ」
 「ワオ! おいしそうな匂い」
 ほかほかと、湯気が鼻をくすぐった。生きる喜びの香り。これを食べて栄養をつけて、夜はぐっすり眠ろう。また明日、元気に目覚めるために。
「ねえミスター、やっぱりあーんして」
 二人の、やれやれという顔が見えた気がした。大好きな声。真っ暗な世界に灯った光。
 あつあつのおじやを頬張りながら、俺はにっこりと微笑んだ。誰にも届かなくても、微笑みたいと思った。
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