その他

 それならば、と言われた。
 それならば、海に行きましょうと。
「都築さんが行くのなら、ついていきます。心配ですから」
 麗さんはそう言って、僕の荷造りを手伝ってくれた。日焼け止め、日傘、飲み物、タオル。滅多に使わない僕のカバンはぱんぱんだ。
 季節はすっかり夏。ライブで「海の音を聞きたい」と言ったのは本心だ。この時期の、今だけの音というものが存在する。全身で浴びたいと思ったのだ。暑いのは苦手だけれど、暑いからこそ聞ける音もある。僕らは冷たい水を一杯飲んでから出発した。
 少しだけ雲の多い日だったのは、幸いかもしれない。海辺に着くと人はまばらで、海水浴をしている人は思ったより少なかった。僕と麗さんは日陰を探したけれどうまく見つからず、持ってきた日傘で影を作った。
「波の音というのはいいものですね。何かが洗い流されていくというか」
「人間は、海から生まれているからかもしれないね」
 僕らは耳をそばだてた。そばだてなくても、自然と耳に入ってくるけれど。音の粒を、ひとつも掬い落としたくなかった。一粒一粒すべてが、この地球を作っているのだと、夏を作っているのだと、満たされていたかった。
「ねえ、麗さん。夏って、何だと思う?」
「え、夏、ですか。ええと……季節の中で一番暑くて……春の次で、秋の前……」
「僕はね、青だと思うんだ」
 あお、ですか? と、麗さんはきょとんとした。夏は青の音がする。青色を奏でたら、こんな音になるんじゃないかと思う。空と、海と、萌える木々の生命力の音。ところどころひまわり色に跳ねて、それを太陽が光らせて。
「……なるほど。確かに……?」
「いいんだよ、麗さんは麗さんの音で。緑色でも、金魚色でも」
 麗さんは尚もきょとんとしながら、何か納得した風でもあった。海は広大だ。人間の思考なんてちっぽけに思える。僕らが夏について思いを馳せている間に、いつのまにか秋の準備を進めていたりするのだろう。
「風が心地いいね」
 海岸を撫でる風が、僕たちの肩を濡らして去っていく。髪が暴れてしまうから、いつもよりきつめに後ろで縛った。麗さんの髪もおでこに張り付いていたから、指先で左右にかき分けてみた。
「……ありがとうございます」
「ふふふ」
 おでこを出した麗さんは、恥ずかしいのか、日傘を深くかぶってしまった。またいいものを一つ見られた。都会じゃ見られない、夏の思い出。
「……都築さん」
「ん、なあに」
「今度、かざぐるまを買いませんか」
「かざぐるま?」
 海のイメージとはかけ離れている気がする。最後にかざぐるまを見たのはいつだったっけ。今度は僕がきょとんとしながら麗さんを見つめた。
「風、を見てみたくて。風の音を」
「……なるほど」
「だが、夏らしく、風鈴でもいいかもしれない」
 なにか慌てた様子で付け足した麗さんの様子がおかしくて、僕はくすくすと笑った。そうだ、確かに風鈴も、風の音だ。
「僕はね、麗さんと、こうして海に来られたことが、とても嬉しいよ」
「……はい、私もです」
 ざざ。波が寄せては引いていく。僕は足元に落ちていたシーグラスを手に取った。遠い遠い国の、いつかの時代の海賊の、宴会に使われていたものかなあ。壮大でロマンチックな、物語の欠片。角がとれて丸くなったこれは、浪漫の断片かもしれない。
 僕たちは海岸のシーグラスを拾いながら、時折貝殻も拾いながら、少しずつ帰り道へと向かった。ハンカチで包めるほど拾った宝物は、事務所の人々へのお土産にしようと思う。大冒険をしてきたんだよ、と言って。
 帰りの電車のなかで僕らは、日焼け止めを塗るのをすっかり忘れていたことに気付いた。ひりひり痛む肌もまた、夏の思い出のひとつとなった。
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