その他

 ピエールに、また「密会!」と怒られてしまうかもしれないが、今日も今日とて、みのりさんは我が家に来た。曰く「居心地がいいから」とのことで、みのりさんの家に行く回数より、我が家に集合する回数の方が多い。たいしたものはない、気に入りの家電と貰い物の紅茶くらいしか。でもみのりさんはこれがいい、と言って床に座る。ああだから、座布団使っていいのに。
「ピエール、最近また背が高くなったかなあ?」
「そうかもっすね。そのうち越されたりして」
「あはは。その時が楽しみだなあ。俺が一番低くなるの?」
 みのりさんはチューハイの缶を片手にけらけらと笑う。俺はようやく慣れてきたビールをちびちびと飲みながら、その将来のことを考える。ピエールが俺よりも高くなったとしたら。見える景色はだいぶ違くなりそうだ。
「パフォーマンスとか変わってきそうですね」
「わ、過去と未来でフォーメーションが変わったりするの? 激アツじゃん!」
 みのりさんは目を輝かせ語りだす。いつもの光景だ。俺は例に習って苦笑しながら彼の話を聞くのだが、今日はなんだか違う気分だった。
「変わってくんだよな。過去から未来へ」
「……恭二?」
 いつまでもくすぶってちゃいられない。俺は更なる高みを目指さないといけない。いつだってのしかかるのはプレッシャーだ。俺はビールの缶を机に置き、ちょっと換気します、と言ってベランダの戸を開けた。
「恭二、お水飲んでないでしょ」
 夜風にあたっていたら、みのりさんがコップに水を注いで持ってきてくれた。波打つ水面は透明で、何の味もしない液体、と思いながら受け取る。
 今夜は満月だった。満月と新月の時は、身体に不調が出やすいと聞いたことがある。俺もきっとそれに違いない。ベランダから見える道路脇の木々が黒々と揺れ、地面はしっとりと夜を映していた。街はまだまだ眠らないらしく、星よりも煌々と明るい。だけど誰も今、俺たちがここにいることを知らない。
「ねえ、恭二。コップ、前に突き出してみて」
「……?」
 俺は言われるがまま、コップをベランダから先へ突き出してみた。まさか下に水を落とせと言われることはないだろう。
 みのりさんはコップに手を被せ蓋のようにして、「えいっ」と唱えたかと思うと、その手をぱかりと開いた。
「ほら。満月。めしあがれ」
 コップの中には、満月がいた。もちろん空にも輝いちゃいるが、ミニチュアの満月が、俺の手の中に浮かんでいる。この人はときたまこういうことをする。俺はまた苦笑しながら、それを飲み干した。
「どう? 満月の味は」
「……魔法みたいだ」
 月光は身体に染み渡り、俺は今無敵であると潤った。不思議だ。たったこれだけの魔法で、未来は明るいものに思える。
 歩幅は様々でも、着実に前に進めているから、俺は今この場にいるんだ。道を走る車が小さくなるまで見送る。その道の先が幸多からんことを、と思ってしまうほどには、心中は慈愛に満ちていた。これも満月のなせるわざか。みのりさんは缶チューハイをそのまま持ってきており、乾杯、と言って俺のコップに軽くぶつける。
「満月の夜にはね、乾杯しなきゃだめなんだよ」
「……さてはアンタ、酔ってるな」
「あはは。酔ってても酔ってなくても、今日は素晴らしい日って意味!」
 彼の楽しそうな様子を見るのが好きだった。鬱屈とした日々に彩りを添えて、笑って、楽しんでいいのだ、と許された気持ちになるから。俺も缶ビールを持ってきて、みのりさんの缶にぶつける。
「はやくピエールとも飲みたいなあ」
「そうっすね。強そうだな」
「あー、泣いちゃいそう」
 ええ、と動揺していると、みのりさんは目尻に涙を溜めながら「楽しくて!」と言って笑った。
 ああ、そうだな。泣いてしまいたくなるほど楽しい、満月の夜だ。
 夜風は生ぬるく俺たちを包み、あいまいに撫でて吹き去っていった。つけっぱなしのテレビから、俺たちの出ているバラエティー番組の音が漏れ聞こえる。付け足されているであろう観客の笑い声がたとえ空虚でも、お茶の間に笑顔を届けられていたらと願ってやまない。
「ねえ、恭二。俺たちさ、無敵だよ。どこまでも行こうね」
 満月を飲み込んだ俺たちは無敵だ。みのりさんの肩を抱き寄せて、はいと答えた俺の手は。沸騰しそうな程熱かった。
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