その他

  弁護士時代の夢を見た。
 事務所の奴らやプロデューサーに話していない、思うようにいかなかったこと、苦しかったことは、実はたくさんある。その時のことを思い出しては、「あの時ああすればよかった」と一人で悔しく拳を握りしめる瞬間があった。もちろんアイドルという選択を誤ったとは微塵も思わないし、毎日楽しくて充実していてしあわせだ。
 だけど時たま、「あの時ああしていれば」は、襲ってくる。

「おはようございます。あれ、輝さん、なんだか元気ないですね」
 事務所でコーヒーを飲んでいると、翼の痛い一言が胸をつく。「そうか?」と明るく答えたが、翼の心配そうな顔はとけなかった。
「大方変な夢でも見たのだろう」
 桜庭はそう言って俺の淹れたコーヒーを飲む。図星であるため否定できず、変に取繕った笑顔で翼の分のコーヒーを淹れた。砂糖たっぷり。これでなんとか誤魔化せたらいいのだが。
「今日の収録でヘマさえしなければいい」
「俺がそんなことするはずないだろ!」
 俺はブラックを一気に飲み干し、さて、気持ちを入れ替えねば、と大きく笑った。今の俺はアイドルだ。誰もを笑顔にするために、俺自身が笑顔でなければならない。
 プロデューサーが事務所に戻ってきたところで、俺たち四人は打ち合わせを始めた。その間も翼はちらちらと俺のことを見ていて、ああ心配かけてるな、と思ったけれど、そのたびに特大の笑顔で返す。せめてお前には安心してほしい。

 午後の収録もうまくいった。俺がボケて翼が慌てて、桜庭が突っ込む。いつものコンボも決まったし、番宣もばっちりだ。番組プロデューサーにもよかったと言って貰えたし、関係者もみな笑顔の現場だった。
 大満足、いつもならそう言えるのだけど――なんとなく、心の奥底に、その「何か」はいた。胸の奥でどす黒く居座る、こびりついた憂鬱。俺ももういい歳だから、「そんな日もある」と割り切れるのだが、深淵は放っておくとどんどん大きくなることがある。アイドルの仕事に支障をきたしたく無い。
 こういう時は、あえて深淵にどっぷり浸かることだ。深淵を満足させてやればいい。俺は翼から夕食に誘われたが、「ちょっとやることがあって」と断った。
「珍しいな。きみが断るなんて」
「俺にだって用事くらいある」
 桜庭に何か勘づかれる前に、とっとと帰ってしまおう。

 帰るつもりが、俺はいつぞやの川辺に来ていた。デビューしたての頃、ダンスレッスンに励んでいた場所だ。バーで酒を煽るのもよかったが、独りになりたい気分だった。深淵は川を見て何を思うのだろう。
 誰かのヒーローになりたいと、願ってやまない。一番星になりたいと、願ってやまない。
 ライブの光景を思い出す。客席一面が輝いていて、ステージの上で奇跡を起こすあの瞬間。あの高揚感は、幸福は、何物にも代え難い。俺はたくさんの宝物を持っている。だから、なあ深淵、お前は消えていいんだぞ。俺は希望に満ち溢れているのだから。
 飼いならそうとしても、今日の深淵はごきげんだ。俺は溜息をつく。こうなったらとことん付き合ってやろう。そう思ったその時、誰かの気配がした。
「やはりここに居たのか」
「……桜庭」
 振り返ると、眉間に皺を寄せた彼が立っていた。食事のあと、わざわざ探しに来てくれたのだろうか。モノズキな奴だ。
「なんとなくだ。なんとなく」
「なんとなくに理由があるのが大人だろう。何でも話してくれと普段口うるさく言っているのはきみの方だ」
「……そうだな」
 桜庭は静かに俺の横に立った。手には缶コーヒーが握られていて、その手は俺に伸びてくる。朝のコーヒーのお礼だろうか。正直何も胃にいれたくなかったが、ありがたく貰う。手の中があたたかい。
「……ここまで生きるとさ。過去の責任って、たまに襲ってくるだろ。今になって」
「そうだな。その積み重ねで今ここにいる」
「今日がその日だっただけだ。明日には落ち着く」
 俺はプルタブに指をかける。あれ、これ微糖だ。いつもならブラックなのに。これも彼の気遣いだろうか。
 川は真っ黒で、静かに俺たちの話を聞いていた。お前に聞かせるためじゃないのになあ。
「……一度しか言わない」
「ん?」
「俺はきみと出会えたことに……感謝している」
「……え?」
 桜庭の方を向こうとすると、「こっちを見るな」と言われてしまったので、おとなしく川の方を向いた。向かい風が頬に冷たい。
「プロデューサーと出会って人生が変わった。そしてきみと柏木と組んで、人生を前に進めた。……僕だって、過去の責任は時に闇になって襲ってくる。声も出ない。そんな時蘇るのは、大切な記憶と、それから――どうしたってきみたちの笑顔と、歌声だ」
 コーヒーが甘ったるく喉を潤していく。深淵は桜庭の言葉をすいすい飲み込んでいった。
「きみは星になりたいんじゃないのか」
「なるさ。一番星に」
「――人間の身体には、炭素が含まれている。これは超新星爆発を経由しないと生成されない成分だ」
「……?」
「だから。人間の構成成分は、必ず、昔は星の一部だった、とのことだ」
 ――俺たちは、星だ。
 桜庭がこちらを見て笑った。その一瞬で、世界は色づきはじめた。黒かった視界が晴れ渡っていく。
 そうか。俺たちは、とっくに星だったんだ。
 川は黒くなんかない。透明だから、夜空を映しているだけだ。深淵は音もなく萎んでいった。俺は耳が熱くなるのを感じた。ライブの時の高揚感が、全身を包む。
「……輝けてるかな。俺たち」
「ファンの笑顔を見れば分かるといつも言っているのはきみだ。僕はもう帰るからな」
 桜庭はそれだけ言うと、さっさと帰ってしまった。俺はまた一人になった。けれど、もう独りじゃなかった。
 俺は希望に満ち溢れているのだから。俺は両頬を叩いて、大きく伸びをした。
 ここに、ひとつの星が笑っていた。
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