鋭百

 タクシーの窓の外を走っていく夜景に、時間が溶けていく。溜息を長く長く吐いていれば、いずれ家に着くのだから、身を委ねていればいい。時たま話しかけてくる運転手がいるけれど、そんな時は架空の身の上をでっちあげて適当に相槌をうっている。
 ああ、よくない。夜はよくない。寂しさが闇を纏ってへばりついてくる。アマミネくんに教わった曲を耳に突っ込んでも晴れない。タクシーは無言で走り続ける。あの街頭っていつ生まれたんだろう。この道路はいつ生まれたんだろう。とりとめない考えが頭の中に洪水となって溢れだす。マユミくんに会いたい。さっきまで一緒に仕事してたのに。明日だって事務所で会うことになっているのに。
 例えばボクが、人魚だったらよかったのに。彼のために声を差し出して、がむしゃらに距離を縮めて。その時ボクは、歩ける代わりに、歌うことができなくなっても、泣かないだろうか。わからないけれど、ただ彼に近づければ、それだけでいいと願うかもしれない。
 人魚の涙は真珠になると聞いたことがある。そうしたら、ボクは泣くことを許されるかな。泣けるだけ泣いて、その宝石を、彼に与えられたかな。彼はそれを喜んでくれるかな。価値をつけてくれるかな。
 とりとめない。ボクは二本足で歩く人間だ。いつだって歌えるし、彼に話しかけられる。自分の心を押し殺して、でもどうしても欲求が抑えられなくて、ボクは彼に平凡なLINKを送る。
「今日はお疲れさま。差し入れ、おいしかったね」
 いつでも連絡をよこしていい、と約束してくれたのは彼だ。それがどんな内容でもいい、というところまでは言葉にしてくれなかったけれど、きっと彼は受け入れてくれる。それでも当たり障りない話題しか振れないのは、ボクが臆病なせいだ。
「お疲れ様。美味かったな。あのケーキの店なら知っているが、今度行くか?」
 甘いなあ。ケーキみたいに甘い。そんなに甘やかされたら、もう止まれないよ。ボクの目からはいつのまにか雫が溢れて、でもそれはただの水滴で、真珠にならずに落ちていく。運転手さんから見えないように、必死に窓の外を見て、ぼやけていく夜景でごまかした。溜息を長く長く吐いていれば、いずれ家に着くのだから、身を委ねていればいい。
「行ってみたいな、どこにあるの?」
 六等星が見えない都会に、無数に存在するケーキ屋さん。本音を言えば、どこでもよかった。どこにあるかなんて、興味なかった。必死に涙を拭って、彼を繋ぎ止めるように返信を打つ。
「俺の家から数駅だ。百々人、どうかしたか」
「えっ」
 どうかしたかなんて、どう言う意味だろう? ボクは文脈がわからなくて返信に困ってしまった。
「体調でも悪いか?」
「悪くないよ、どうして?」
「なんだか、泣いている気がして」
 えっ、と、今度は本当に声が出た。おかしいな、弱音なんて吐いてないのに。甘えたい心を見透かされないように、深呼吸しながらメッセージを送ったのに。
「思い違いならいいんだ、すまない」
 きっと、声にならない声が届いてしまったんだ。どうしよう、迷惑だったかな。ボクは人魚じゃないから、とびきりの歌は聞かせられないし、広大な海に逃げることもできない。涙は相変わらず水のままで、真珠なんて生まれやしなかった。
「明日会った時、ケーキ屋に行く予定を立てよう」
 甘い甘い彼の、凛とした匂いを思い出した。抱きしめられた時の、あたたかな優しさを思い出した。どうしたってボクは、彼から離れられない。二酸化炭素に嗚咽が混じり出す。
「もうすぐ着きますよ」
 運転手さんが無愛想な声で告げる。無愛想なのは、たぶんわざとだ。ボクが泣いているのに気づいて、あえてそっけなくしてくれている。
 ボクは一人じゃない。一人じゃないし、一人で立って歩ける。それは両立する。海水の代わりに、数多のペンライトに囲まれて、肺で呼吸している。
 涙でべとべとの手でお会計をした。明日には泣き止んでいるから許してください、と唱えながら。
「明日会えるの、楽しみにしてる」
 スタンプでおやすみを告げて、小さく笑った。滲んだ都会は海の中みたいで、ボクはまた深呼吸した。
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