その他
女性の大絶叫に、思わず振り向いてしまった。それがよくなかった。
子供が車道に飛び出していたのと、その車道を車が走っているのを視界でとらえ、あ、間に合わない、と直感でわかってしまった。全身の血の気がさあっと引いて、立っていられなくなって。人々の叫び声と、嫌な衝突音がどんどん遠ざかりながら、俺は意識を手放した。次の瞬間、俺の視界に入ったのは知らない天井だった。
「こういっちゃなんだけどさ。ハヤト、倒れてよかったよ」
アナウンスがひっきりなしに聞こえる。ここは駅の救護室らしかった。四畳ほどの部屋に簡単なベッドと椅子。椅子にはジュンが座っていた。ハルナは続ける。
「あんなん見たら、トラウマなる。ジュンも吐いたし、シキもナツキも顔真っ青だし」
電車の振動だろうか、部屋が重く揺れている気がする。ハルナの顔も白く見えた。あの後の詳細を聞いたところで安心できるのかわからずに口を噤んでいたら、「救急車で運ばれてったよ。そっから先は知らない」と教えてもらった。どうか無事でありますようにと願おうとして、それもまた残酷な感情のような気がした。
「立てるか。送ってく」
「みんなは……」
「ナツキ、ジュンを送ってくれ……まあ言わなくてもか。シキは……シキも送ってくよ」
「いいっす。一人で帰れるっす」
弱々しく呟いたシキはニコリとぎこちなく笑った。そこにいつもの快活さはない。そりゃそうだ、あんなシーンを見たら……
「……俺、だけ」
「どうしました」
ジュンがか細い声で聞く。俺はとんでもないことに気付いてしまった。
ここにいる全員が、その瞬間を見てしまったのに。俺一人だけ、見ていないのだ。
見ていないことは幸福かもしれない。ハルナの言う通りトラウマになるだろう。だけど、俺だけ。俺だけ、その業を背負いそびれてしまった。
まるで、一人だけ逃げたみたいに。
「気にしすぎですよ」
仕事が無い日は、部室に集う。宿題を教え合ったり、作詞作曲を手伝ってもらったり、仕事の振り返りや作戦会議をしたり。話すことは尽きない。今日はジュンと俺だけがいる。ハルナはバイト、シキは補講、ナツキは仕事のはずだ。あの日から、俺たちの間の温度は少し弱々しい。
「でもさ。俺だけ逃げたんだよ。みんな同じだけ苦しいのに」
ニュースを見るのをやめた。あの事件が報道されているのを見てしまったら、俺まで吐いてしまうと思ったからだ。
ジュンはあの日、その瞬間を目撃して吐いてしまったそうだ。ナツキに介抱されながら、俺と一緒に救護室で休んでいたとのことだ。気丈に振舞っているが、ジュンだってトラウマになってるはずなのに。
「ハヤト」
机の上で、シャーペンを手放したまま行き場を失っていた俺の手に、ジュンの手が重なる。指先はひどく冷えていた。
「あの瞬間を、僕らはきっと忘れられません。だけど、一人だけ逃げてしまったというハヤトの苦しみも、たぶん同じくらい辛いものだと思います」
ジュンの大きな目が、俺をまっすぐ貫く。ふわふわと漂っていた意識が、すとんとここに座った気がした。
「だから、一人じゃないですよ」
ジュンの手は綺麗だ。ピアノによく映える。俺の手はなんでだかよく怪我をしていて、陽にも焼けやすいし、少年、という感じの手だと思う。自分でいうのもなんだけど。俺の指先も冷えていた。ジュンの手に力が籠る。
「ハヤトが笑ってないと、僕たちは笑えない気がするんです」
廊下を騒ぎながら走る誰かの声がする。みんな、一瞬一瞬を全力で生きている。青春しようぜ、と言ったのは俺だけれど、きっとみんなも青春の真っ只中だ。
生命というものの傲慢な力強さに引っ張られそうになる。その反面、脆くて儚いということを知ってしまったから。
「だから、笑ってください。ハヤト。なんでもないと言う風に。僕らを救ってください」
ジュンの声は力強くて、でもどこか弱々しくて。俺という存在を許してくれる、その声に今までどれほど救われてきたことか。
「……うん、そうだね」
俺が笑わないといけない。みんなが笑えるように。ジュンに向かって、無理やり笑ってみせた。あの日のシキよりぎこちなかったと思う。ジュンは少しきょとんとしたあとに、くすくすと笑いだした。
「あはは、変なカオ」
「ジュンが笑えって言ったんだろ」
「そうですけど」
「でも、いいや。ジュンが笑えたから」
ほら、ね。ジュンは笑いながら、もう一度俺の手を握ってくれた。今度は俺もしっかりと握り返す。指先がさっきよりもあったかくなってきた気がする。二人とも生きている証拠。
「……ね。無事を願うことって、傲慢かなあ」
「いいんじゃないですか。僕だって願ってますよ」
「ほんと?」
「何も祈らないより、よっぽど人間らしくていいと思いますけど」
そうか。そうだよね。俺はジュンの手を握りながら、大きく深呼吸をした。
どうかあの子が、あの子の母親が、運転手が、誰も取り残されませんように。誰かがこうして手を握ってくれますように。
「……ね、もうしばらくこうしてていい?」
「……いいですけど。今日だけですよ」
ジュンは少しだけ頬を赤らめながら視線を逸らした。白くて美しい指先が、ほかほかと火照りだす。
廊下から、校庭から、生命たちの騒ぐ声が聞こえてきた。俺たちは静かな部室の中で、二人分の呼吸をしながら祈っていた。
子供が車道に飛び出していたのと、その車道を車が走っているのを視界でとらえ、あ、間に合わない、と直感でわかってしまった。全身の血の気がさあっと引いて、立っていられなくなって。人々の叫び声と、嫌な衝突音がどんどん遠ざかりながら、俺は意識を手放した。次の瞬間、俺の視界に入ったのは知らない天井だった。
「こういっちゃなんだけどさ。ハヤト、倒れてよかったよ」
アナウンスがひっきりなしに聞こえる。ここは駅の救護室らしかった。四畳ほどの部屋に簡単なベッドと椅子。椅子にはジュンが座っていた。ハルナは続ける。
「あんなん見たら、トラウマなる。ジュンも吐いたし、シキもナツキも顔真っ青だし」
電車の振動だろうか、部屋が重く揺れている気がする。ハルナの顔も白く見えた。あの後の詳細を聞いたところで安心できるのかわからずに口を噤んでいたら、「救急車で運ばれてったよ。そっから先は知らない」と教えてもらった。どうか無事でありますようにと願おうとして、それもまた残酷な感情のような気がした。
「立てるか。送ってく」
「みんなは……」
「ナツキ、ジュンを送ってくれ……まあ言わなくてもか。シキは……シキも送ってくよ」
「いいっす。一人で帰れるっす」
弱々しく呟いたシキはニコリとぎこちなく笑った。そこにいつもの快活さはない。そりゃそうだ、あんなシーンを見たら……
「……俺、だけ」
「どうしました」
ジュンがか細い声で聞く。俺はとんでもないことに気付いてしまった。
ここにいる全員が、その瞬間を見てしまったのに。俺一人だけ、見ていないのだ。
見ていないことは幸福かもしれない。ハルナの言う通りトラウマになるだろう。だけど、俺だけ。俺だけ、その業を背負いそびれてしまった。
まるで、一人だけ逃げたみたいに。
「気にしすぎですよ」
仕事が無い日は、部室に集う。宿題を教え合ったり、作詞作曲を手伝ってもらったり、仕事の振り返りや作戦会議をしたり。話すことは尽きない。今日はジュンと俺だけがいる。ハルナはバイト、シキは補講、ナツキは仕事のはずだ。あの日から、俺たちの間の温度は少し弱々しい。
「でもさ。俺だけ逃げたんだよ。みんな同じだけ苦しいのに」
ニュースを見るのをやめた。あの事件が報道されているのを見てしまったら、俺まで吐いてしまうと思ったからだ。
ジュンはあの日、その瞬間を目撃して吐いてしまったそうだ。ナツキに介抱されながら、俺と一緒に救護室で休んでいたとのことだ。気丈に振舞っているが、ジュンだってトラウマになってるはずなのに。
「ハヤト」
机の上で、シャーペンを手放したまま行き場を失っていた俺の手に、ジュンの手が重なる。指先はひどく冷えていた。
「あの瞬間を、僕らはきっと忘れられません。だけど、一人だけ逃げてしまったというハヤトの苦しみも、たぶん同じくらい辛いものだと思います」
ジュンの大きな目が、俺をまっすぐ貫く。ふわふわと漂っていた意識が、すとんとここに座った気がした。
「だから、一人じゃないですよ」
ジュンの手は綺麗だ。ピアノによく映える。俺の手はなんでだかよく怪我をしていて、陽にも焼けやすいし、少年、という感じの手だと思う。自分でいうのもなんだけど。俺の指先も冷えていた。ジュンの手に力が籠る。
「ハヤトが笑ってないと、僕たちは笑えない気がするんです」
廊下を騒ぎながら走る誰かの声がする。みんな、一瞬一瞬を全力で生きている。青春しようぜ、と言ったのは俺だけれど、きっとみんなも青春の真っ只中だ。
生命というものの傲慢な力強さに引っ張られそうになる。その反面、脆くて儚いということを知ってしまったから。
「だから、笑ってください。ハヤト。なんでもないと言う風に。僕らを救ってください」
ジュンの声は力強くて、でもどこか弱々しくて。俺という存在を許してくれる、その声に今までどれほど救われてきたことか。
「……うん、そうだね」
俺が笑わないといけない。みんなが笑えるように。ジュンに向かって、無理やり笑ってみせた。あの日のシキよりぎこちなかったと思う。ジュンは少しきょとんとしたあとに、くすくすと笑いだした。
「あはは、変なカオ」
「ジュンが笑えって言ったんだろ」
「そうですけど」
「でも、いいや。ジュンが笑えたから」
ほら、ね。ジュンは笑いながら、もう一度俺の手を握ってくれた。今度は俺もしっかりと握り返す。指先がさっきよりもあったかくなってきた気がする。二人とも生きている証拠。
「……ね。無事を願うことって、傲慢かなあ」
「いいんじゃないですか。僕だって願ってますよ」
「ほんと?」
「何も祈らないより、よっぽど人間らしくていいと思いますけど」
そうか。そうだよね。俺はジュンの手を握りながら、大きく深呼吸をした。
どうかあの子が、あの子の母親が、運転手が、誰も取り残されませんように。誰かがこうして手を握ってくれますように。
「……ね、もうしばらくこうしてていい?」
「……いいですけど。今日だけですよ」
ジュンは少しだけ頬を赤らめながら視線を逸らした。白くて美しい指先が、ほかほかと火照りだす。
廊下から、校庭から、生命たちの騒ぐ声が聞こえてきた。俺たちは静かな部室の中で、二人分の呼吸をしながら祈っていた。