鋭百

 軟口蓋を上げる、ということを、レッスンで何度も指摘されてしまった。欠伸をすると上がるでしょ、と言われるたびに欠伸をしていたから、疲れていないのに眠くなった気がする。
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
「お疲れ様。しゅーくん、用事でもあるの? 嬉しそう」
 ボイトレは、ダンスとは違う疲れ方をする。リラックスをしなければならない、という緊張をずっとしているからかもしれない。それでも隣で汗を拭くしゅーくんはピンピンとしていて元気そうだった。
「はい、このあと恭二さんたちとゲームするんで」
「わあ、それは楽しみだね。いってらっしゃい」
 しゅーくんを見送って、さて、と僕は隣を見る。えーしんくんは淡々と帰り支度をしていて、その寡黙さはどこか上の空っぽかった。
「……えーしんくん、疲れた?」
「……ああ、すまない。何か言ったか」
「ふふふ。疲れてるの? って言っただけ」
 えーしんくんはきょとんとした後(たぶんこれが「きょとん」だと分かるのは僕だけだと思う)、そうかもしれないな、と呟いた。珍しい、彼は体力はあるほうなのに。
「どこか寄れたらな、って思ったけど、早く帰った方がいいかも」
「いや、……帰りたくない。どこか付き合ってくれないか、百々人」
 いよいよ珍しい。僕はびっくりしてしばらくえーしんくんを見つめてしまい、今度はえーしんくんに「どうした?」と聞かれてしまった。だって、君がそんなこと言うだなんて、熱でもあるんじゃないの。思わずえーしんくんのおでこに手を伸ばす。
「……ほんとに熱いかも」
「体調は悪くない。大丈夫だ」
「でも、万が一ってこともあるし」
「百々人。一時間で良い」
 どこかに行かないか。そうまで言われちゃったら、僕はもう引き下がるしかなかった。仕方ない、そこまで言うのなら。僕らは身支度を整え、ロッカールームを後にした。
 梅雨のはじまりとは思えない、カラッとした陽射しが暑かった。日傘というものをどうにも使いこなせなくて持ってこなかったけれど、持ってきた方がよかったかな。えーしんくんは寡黙なままで、どこか別人のようだった。
「あ。アイスがあるよ。食べようか、そこの公園で」
「……そうだな」
 アイス屋さんにえーしんくんを引っ張って連れ込み、ひんやりとしたショーケースの前であーでもないこーでもないと一人で騒いでみせたけれど、えーしんくんのテンションは上がらない一方。僕はチョコミント、えーしんくんはチョコを頼んで、木陰のベンチに腰掛けた。えーしんくんはカップだけれど、僕は贅沢にワッフルコーン。口の中がひんやりとして甘い。
「ね、今日のえーしんくん、すごかった。下ハモって、あんなサラっとできるものなんだね」
「主旋律と合わさって気持ちいい場所をさらう感覚だな。百々人だって、いつも伸びやかに歌っていて見事だ」
 褒めたつもりが、褒めかえされちゃった。そう言ってもらえるなら、たくさん欠伸をした甲斐があったというものだ。
 僕らはしゃくしゃくとアイスを食べ進めた。口の中から食道を通って、冷たさが胃に到達する。
 えーしんくん、いったんどうしたのだろう。ちらりと横を見たけれど、彼はいたって普通そうだ。無理に聞き出すのもよくないし、僕はせっせとチョコミントを口に運ぶ。
「えーしんくん。あーん」
「……外だぞ」
「いーから。あーん」
 少し迷ったのち、ぱくりとスプーンを口に運んだえーしんくんは、「うまいな」と言って咀嚼した。代わりに僕にもチョコをあーんしてくれたので、僕の口の中は随分賑やかだ。
「珍しいね。帰りたくないの」
「……たまには、そんな日もある」
「……ね、また来ようね。しゅーくんも誘ってさ」
 何も教えてくれなくたって構わない。ただ、隣にいることを許してくれることが嬉しかった。ワッフルコーンの最後までを食べ尽くして、僕らはご馳走様をする。
「ね。約束ね。またアイス食べよう」
「……ああ」
「パフェも食べよう。りんごもみかんも食べよう」
「……そうだな」
「またね。また来ようね」
 黙っていたら、陽射しのなかにきらきらと吸い込まれて行ってしまいそうだった。彼の冷たくなった指先を握って、なんとか引き留めようとする。僕の必死さを見て、今日はじめてえーしんくんは口角を上げた。
「アイスくらい、いつでも行こう」
「よかった。やっと笑ってくれた」
 彼にも、きっと眠れない夜はある。夜に眠れなくて、昼に眠くなることだってある。今日がたまたまその日だっただけ。夏の始まりの暑さにやられて、ちょっと身体が火照ってるだけ。
 だから、こんな不意打ちのキスも、熱に浮かれてるせいなんだ。
 えーしんくんの唇はひんやりとチョコ味で、僕はたぶんチョコミント味で、呼吸が熱くて沸騰しそうだった。顔を離して、二人してふふふと笑う。
「日傘、持って来ればよかったね」
「また今度。次の機会には持ってこよう」
「そうだね。また今度ね」
 またね、またね。僕らは何度かそう呟いて、公園から出て、角の所でばいばいした。随分とあっさりした別れだった。一時間の逃避行、今夜の彼がチョコの夢を見られますように。僕は流れる汗を拭きながら、またねをお守りみたいに繰り返し呟いた。
 会うたびに重なってくまたねを集めたら、いつか永遠になれるだろうか。永遠は彼を救うことは出来るだろうか。
「……なーんて。ろまんちすと」
 僕も帰りたくない家路につく。明日はもう少し涼しいと良いな。太陽はそんな僕の願いむなしく、燦燦と輝いていた。
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