舞握

 朝から曇天は続いた。折り畳み傘は持っていたし、ぱらぱらと小雨が降るたびに何度も使おうとしたものの、本格的には降ってこず、その手の中の物を持て余すばかりだった。
「グッモーニン、ミスターあくの!」
「類はこんな日でも元気だな……」
 事務所に着くと、部屋中が煌々と明るい。その理由が新しく取り換えた電球ではなく類の笑顔のせいだってことはすぐさま理解した。賢は買い出し、プロデューサーは誰かの付き添い。ここに来た理由は資料を受け取りに、でしかなかったけれど、S.E.Mがいるなら仕事の話が出来るかもしれない。この先のライブについて、少しでも情報を仕入れておきたい。
「事務所に居るの、俺オンリーだよ」
「えっ、道夫と次郎は?」
「それぞれ撮影。今日はレインだから、ここもロンリーだね」
 コーヒー、ミルクは? と聞かれて、類が二人分のマグカップを手にしていることに気付いた。俺はミルクと砂糖を入れてもらいたい旨を言って、窓辺に寄る。相変わらずの曇天。この風景を演奏するとしたら、重い音になるだろう。
「ね、ミスター。孤独って、二つあるんだよ」
「ふたつ……?」
 それこそ、今目の前に差し出されたマグカップはふたつのうちのひとつだが、いったい何の話だろう。俺たちはソファに座って、目まぐるしいスケジュールが書き込まれたホワイトボードを眺めた。
「消極的な孤独と、積極的な孤独のこと」
「……どっちも同じなんじゃないのか?」
 甘いカフェオレは口の中をまろやかに踊り、少し冷えた腹をあたためた。類のマグカップの中身も同じ色をしているから、俺と同じだけミルクと砂糖を入れたのかもしれない。窓の外からさあさあと音が聞こえる。雨がついに降りだしたようだ。雨粒が窓ガラスにぶつかる。
「さっき俺が言った、ロンリー。ロンリネスが、消極的な、望んでない孤独」
「普通に寂しいって意味かと思ってたぜ」
 イエス、と呟いて笑う類の髪が、すこし湿っているのがわかった。ここに来るまでに傘をささなかったのか。俺と同じだ。いや、類のことだから、そもそも傘を持っていなかった可能性がある。こんなにも雲が厚いのに。
 ふわ、っと、ミルクの香りがした。手の中のマグカップを揺らす。ロンリネスという言葉の使われている、いくつかの歌の歌詞を思い出していた。類はそんな俺の様子をしばし見てから、にこりと口角を上げる。
「ソリチュード、って言ってね。自分から好んで孤独になること。ソロ、が語源」
「……なる、ほど」
「アンダースタンド?」
 ひとりきりになりたい時というものが、誰しもある。冷静になりたい時、からっぽになりたい時。どっぷりと浸かりたい時、しんと静まり返りたい時。身に覚えがないわけじゃなかった。あえて深夜にランニングを行うことがあるのも、そういったものを求めてだと思う。どこまで行っても夜空が手に入らない時がある。
「わかるぜ。ソリチュード」
「今さ、俺たち、世界に二人っきりじゃない?」
 え、と隣を見ると、どこか寂しそうに笑った類がいた。彼のマグカップの中はすっかり空で、俺はなんだか遅れをとったような気がして、慌てて自分のマグカップを傾ける。雨が本降りになってきた。相変わらず事務所は煌々と明るい。
「雨の中に閉じ込められちゃったみたいだね」
 英語を話さない時の類は、注意しなくてはならない。何かを企んでるか、何かを伝えたいのか、何かを思い悩んでいるのか。俺でよければ話してくれ、と向かい合おうとすると、その視線が熱っぽいことに気が付いた。
「今さ、世界中、俺たちを見てないよ」
「……あ、ああ。そうだな」
「何でもできるし、どこにでも行けるよ」
 類の手が、そっと俺の手を掴んだ。ひどく熱いのは、カフェオレのせいか。伏せたまつ毛が瞬く音が、雨に乗って聞こえた気がした。俺は自分の動悸が高鳴るのを感じる。なんだ、これ。
「どこに行きたい?」
 ソリチュードを味わいに。どこに行ったらいいんだろう。それはきっとステージ裏だったり、公園だったり、深夜のコンビニだったりするんだろうけど。
「……どこでも、いいぜ。類の行きたいところまで」
 俺は気が付くとそう言っていた。本心だった。彼を満たしたい、と思った。彼と手を繋げるのなら、どこまでも行けると思った。
「ふふ、ミスターならそう言うと思った」
 類はぱっと手を上げて、ジョークだよ、のポーズをとる。なんだよ、と俺は笑う。彼のロンリネスには気づかない振りをして笑う。もう一杯飲むか、今度は俺が淹れるから、と彼のマグカップを持ち上げようとすると、類に手を制された。
「あのね、もう少し、隣にいて」
「……いいけど」
 今の風景を演奏するなら、音色はどんなふうに奏でられるだろうか。ソリチュードとロンリネスの違いを、俺は歌声に乗せられるだろうか。類は楽しそうにふふふと笑っていて、俺もまた釣られて笑う事しかできなかった。ただいま、と賢の声が聞こえるまで、俺たちは世界にふたりっきりだった。
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