鋭百
ぱき、と音がした。指先、腰、首。集中してたから、大きく伸びをすると、身体中が忘れていた呼吸を再開させる。
「百々人」
「なあに」
「関節を鳴らすんじゃない」
実は負荷がかかっているから、とかなんとか、ああ鬱陶しい。真っ白なキャンバスにぶちまけた黄色が目にうるさい。
その唇を塞いでしまえ、と彼に近付いたところで目が覚めた。
「……なんだ、夢か」
絵が描けない夢をよく見る。大抵、真っ白なキャンバスに、何色かを無理やり乗せているのだけど、それは意味をなしていない。びっしょりとかいた汗が気持ち悪くて、ベッドから起き上がる。
頭痛が酷い。薬、あったっけ。コップに水を注ぎながら、マユミくんのことを考えていた。規則正しい彼は、きっと今頃熟睡しているはずだ。
いたずら、したくなった。スマホに指をすべらせ、マユミくんにLINKを送る。
「会いたい」
こんな夜中に、見てるわけがない。朝にこのメッセージに気付き慌てるだろうか、寝ぐせのついた彼を想像してにやけてしまった。あはは、何してるんだろう。迷惑かけちゃいけない、メッセージを取り消した、その時。
マユミくんから着信があった。
自分から連絡をとっておきながら、いざ反応がくると驚いてしまう。ばくばくと心臓がうるさいなか、そっと通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
「百々人。どうした」
夜中なのに、彼の声は凛としていた。きっと寝ぐせはついていない、まっすぐでさらさらな、そんな声。
「どうもしないよ。会いたくなっちゃっただけ」
誤魔化してもしょうがない。正直に言おう、後は野となれ山となれ。叱られたって構わない、だって今、彼の声を聞けているだけでボクは嬉しいから。
「……会いに、行こうか」
「ええ、怒られるかと思った」
マユミくんでも冗談言うんだね、と笑っても、電話の向こうの表情は読めない。やっぱり怒ってるのかな。謝るタイミング逃しちゃった。――眠れないことは、悪いことなのだろうか。
「眠れないのか」
「寝てたけど、起きちゃったんだ」
「俺もだ。だから気にするな」
「……ありがとう」
寝苦しい夏に睡眠が浅くても、それは普通のことなのかもしれない。罪悪感を覚えなくてもいいのかな。秘密の通話に胸が躍る。世界中に、二人っきり。
「水分はとれよ」
「うん、飲んでるよ。マユミくんも飲んでね」
「ああ。俺も今飲んでいる」
「なんだか乾杯みたい」
コップを少し傾けて、空に向かって乾杯の仕草をした。乾杯なんて、仕事の打ち上げでしかしない。マユミくんと二人きりの時、したことあるっけ。
「……今度、するか」
「乾杯?」
「缶コーヒーでよければ」
「ペットボトルでもいいよ」
くすくすと、二人の笑い声が繋がる。考えていることは同じだ。
「ねえ、マユミくん。朝までこのまま、通話繋げててもいい?」
「構わないが、俺は寝るぞ」
「いいよ。寝息、聞いてたい」
一緒に寝てるみたいで、安心する。そう伝えれば、軽い溜息と、わかった、という声が聞こえた。彼を独り占めしているみたいで、気分はすっかり良くなっていた。
「マユミくんは、夢って見る?」
「たまにな。何か見たのか」
「……ううん、忘れちゃった」
どうせ、嘘だと見抜かれている。だけど、真っ白なキャンバスにデタラメな色を広げていることなんか、言わなくたっていいはずだ。今のボクは、マユミくん一色なんだから。
「あ、でも、ひとつだけ覚えてる」
「なんだ」
「マユミくんに、キスしようとしてた」
「……すればいいだろう、現実でも」
「あはは、そうだね」
恋しかっただけなんだ。それを分かってくれるのが、なにより嬉しいんだ。
そろそろ寝る、と告げられて、じゃあおやすみなさい、と返す。彼の寝息を聞きながら目を瞑り、キャンバスに黒を広げた。
夜の色。二人きりの、秘密の夜の色。
乾杯の絵をかこう。白いコップに、水を注いで。まぶたの裏で、ボクは筆を握りなおす。マユミくんの規則正しい寝息は、まっすぐでさらさらだった。
「百々人」
「なあに」
「関節を鳴らすんじゃない」
実は負荷がかかっているから、とかなんとか、ああ鬱陶しい。真っ白なキャンバスにぶちまけた黄色が目にうるさい。
その唇を塞いでしまえ、と彼に近付いたところで目が覚めた。
「……なんだ、夢か」
絵が描けない夢をよく見る。大抵、真っ白なキャンバスに、何色かを無理やり乗せているのだけど、それは意味をなしていない。びっしょりとかいた汗が気持ち悪くて、ベッドから起き上がる。
頭痛が酷い。薬、あったっけ。コップに水を注ぎながら、マユミくんのことを考えていた。規則正しい彼は、きっと今頃熟睡しているはずだ。
いたずら、したくなった。スマホに指をすべらせ、マユミくんにLINKを送る。
「会いたい」
こんな夜中に、見てるわけがない。朝にこのメッセージに気付き慌てるだろうか、寝ぐせのついた彼を想像してにやけてしまった。あはは、何してるんだろう。迷惑かけちゃいけない、メッセージを取り消した、その時。
マユミくんから着信があった。
自分から連絡をとっておきながら、いざ反応がくると驚いてしまう。ばくばくと心臓がうるさいなか、そっと通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
「百々人。どうした」
夜中なのに、彼の声は凛としていた。きっと寝ぐせはついていない、まっすぐでさらさらな、そんな声。
「どうもしないよ。会いたくなっちゃっただけ」
誤魔化してもしょうがない。正直に言おう、後は野となれ山となれ。叱られたって構わない、だって今、彼の声を聞けているだけでボクは嬉しいから。
「……会いに、行こうか」
「ええ、怒られるかと思った」
マユミくんでも冗談言うんだね、と笑っても、電話の向こうの表情は読めない。やっぱり怒ってるのかな。謝るタイミング逃しちゃった。――眠れないことは、悪いことなのだろうか。
「眠れないのか」
「寝てたけど、起きちゃったんだ」
「俺もだ。だから気にするな」
「……ありがとう」
寝苦しい夏に睡眠が浅くても、それは普通のことなのかもしれない。罪悪感を覚えなくてもいいのかな。秘密の通話に胸が躍る。世界中に、二人っきり。
「水分はとれよ」
「うん、飲んでるよ。マユミくんも飲んでね」
「ああ。俺も今飲んでいる」
「なんだか乾杯みたい」
コップを少し傾けて、空に向かって乾杯の仕草をした。乾杯なんて、仕事の打ち上げでしかしない。マユミくんと二人きりの時、したことあるっけ。
「……今度、するか」
「乾杯?」
「缶コーヒーでよければ」
「ペットボトルでもいいよ」
くすくすと、二人の笑い声が繋がる。考えていることは同じだ。
「ねえ、マユミくん。朝までこのまま、通話繋げててもいい?」
「構わないが、俺は寝るぞ」
「いいよ。寝息、聞いてたい」
一緒に寝てるみたいで、安心する。そう伝えれば、軽い溜息と、わかった、という声が聞こえた。彼を独り占めしているみたいで、気分はすっかり良くなっていた。
「マユミくんは、夢って見る?」
「たまにな。何か見たのか」
「……ううん、忘れちゃった」
どうせ、嘘だと見抜かれている。だけど、真っ白なキャンバスにデタラメな色を広げていることなんか、言わなくたっていいはずだ。今のボクは、マユミくん一色なんだから。
「あ、でも、ひとつだけ覚えてる」
「なんだ」
「マユミくんに、キスしようとしてた」
「……すればいいだろう、現実でも」
「あはは、そうだね」
恋しかっただけなんだ。それを分かってくれるのが、なにより嬉しいんだ。
そろそろ寝る、と告げられて、じゃあおやすみなさい、と返す。彼の寝息を聞きながら目を瞑り、キャンバスに黒を広げた。
夜の色。二人きりの、秘密の夜の色。
乾杯の絵をかこう。白いコップに、水を注いで。まぶたの裏で、ボクは筆を握りなおす。マユミくんの規則正しい寝息は、まっすぐでさらさらだった。