雨想(〜2024.2.18まで/以降はtopから)

「夜中に口笛を吹くと蛇が来ますよ―?」
「ん? 吹いてたかい?」
「いいえー」
「なんだ、北村のいたずらか」
 掃除している雨彦さんが、あんまりにも楽しそうな背中を見せるものだから。そのうち本当に口笛を吹きそうな雰囲気だったので、あらかじめ釘を刺しておいたにすぎない。
「鼻歌は歌ってましたよー」
「そりゃ無意識だった。何を歌ってた?」
「ドライブアライブ」
「はは、我ながらご機嫌だな」
 シンクにクレンザーをかけながら、くつくつと笑う。換気扇がごうごう回って、彼の鼻歌をかきまぜていた。
 時刻は二十二時。夜中と言っても差し支えないだろう。寝るにはまだ早い、ひそやかな、二人きりの時間。それなのに雨彦さんは、突然掃除をはじめてしまった。
「今日の昼寄った雑貨屋で、シンク磨き専用のスポンジを買っただろう? どうしても使い心地を試してみたくてな」
 雨彦さんの右手に握られている茶色のそれは、プラスチックで出来ていて、どうやらペットボトルを再利用して作られているらしい。店頭で見かけた時に、ああ雨彦さん好きそうだな、と思って知らせたのだ。案の定雨彦さんは、おお、と感嘆の声を漏らして手に取り、数秒逡巡してからすぐにレジに向かった。ぼくはそれを見て、店員時代のやりがいというものを思い出してにんまりとしていたのだけど、まさかこんな夜中に使いだすとは思わない。
「使いやすいですかー?」
「ああ、傷つけずに擦れるし、手に馴染む」
「それはよかったー」
 彼の喜んでいる姿を見るのは好きだった。だけど、一人放っておかれるのも手持無沙汰だ。ソファの向かいの、テレビ棚の横に置いてある本棚に手を伸ばす。まばらに置いてある本をぱらぱらとめくっては戻し、めくっては戻し。今の気分にそぐうものが見つからない。寝る前の、ひそやかな、二人の時間にひとりぼっちな時にぴったりな。そんな本、果たして存在するのだろうか? 仕方なく僕は、何度も読み返したことのある文庫本を手に取った。
「その本、好きだな」
「はい、仕方なくー」
「ええ、どういう意味だ」
「僕のこと放っておくから」
 僕は拗ねた声を出し、雨彦さんの方を見る。雨彦さんもその視線に気づいたようで、手を止めて静かに僕を見た。
「雨彦さんが、僕のことを放っておくので、仕方なく読み返す本なんですー、これは」
 ひらひら、と文庫本を振る。栞なんか挟まなくても、どのあたりまで読んだかわかるほどに柔らかくなった本は、手の中で大人しい。
「さみしいかい?」
「そうとも言うかもしれないし、言わないかもー」
「まあ、もうちょっと待ってな」
 再び動かしだした雨彦さんの右手に溜息をつきながら、僕はまた本に目を落とす。よりにもよって、この本の主人公も掃除好きだ。雨彦さんと同じようにキッチンの掃除に勤しんでいる。やれやれ、みんな掃除熱心だな。
「ほら、お待たせ」
 石鹸の匂いをさせた手で、僕の頭を撫でに来る雨彦さんに、そうはいきませんよーと身をかわす。ご機嫌取りなら、相応の態度があるというものだ。
「コーヒーが飲みたいなー」
「仕方ない、磨き上げたばかりのキッチンで用意してやろう」
 雨彦さんは、僕を甘やかすのが好きだ。好きなくせに、時たまこうして放っておかれる。それが心地いい距離感だとも思うけれど、波長が合わない時だってある。同じ空間にいても別々のことをしているのが落ち着くときもあれば、せっかく泊まりに来たのに、と思う夜だって。
「今夜は合わない日かー」
「何がだい?」
「波長」
「はは、そう拗ねなさんな」
 コーヒーにスプーンをくるくる混ぜている様子を見るに、砂糖を勝手に入れたな、と察する。甘やかしたいから甘いものを、だなんて、短絡的だ。
「甘くしましたねー」
「キスよりは苦いさ」
「ロマンチックに言うには、換気扇がうるさいかなー」
 二人分のコーヒーをテーブルに置いて、雨彦さんは僕を抱きしめた。まだ許していないというのに。
「機嫌、なおしてくれるかい?」
「さあ、今夜次第かもー」
 雨彦さんの腕から抜け出して、文庫本を本棚に仕舞う。今夜はもう用済みだろう。砂糖を溶かしたコーヒーは甘くて、夜を覆うような黒さだ。
「こんな時間にカフェインを取ったら、寝られなくなるぜ」
「寝かせてくれるのー?」
「さあ、今夜次第かな」
 今にも口笛を吹きそうな、楽しそうな雨彦さん。彼に釣られて、仕方なく僕もご機嫌になろう。夜はこれからだ、楽しまなければ勿体ない。
「波長が合わない日は、触れ合わない方がいいかと思ってたけどー」
「うん?」
 舌の上で、砂糖がざり、と躍る。内側から僕自身も甘くなっていってるんじゃないか。
「あいにくと、乗り気なものでー」
「そうかい。待たせて悪かったな」
 雨彦さんの唇も甘くて、苦かった。冷め切る前に全部飲んでしまおうと思ったけれど、間に合わない。終わるころにはすっかり冷めているだろう。コーヒーも文庫本も不遇だ。恋人たちの機嫌に踊らされて。
「ねえ、雨彦さん」
「なんだい」
「夜中に口笛を吹くと、蛇が来ますよー」
「来たければ来ればいいさ。追い払ってやるから」
 僕をゆっくり押し倒す彼が、あんまりにも楽しそうだったから、釘を刺したにすぎない。彼の逞しい背中を、手のひらでなぞる。
 時刻は二十三時。もう僕は、手持無沙汰ではなくなった。手の中には、彼の背中が、手が、顔が、唇があった。コーヒーの香りが、砂糖多めに、僕ら二人を包んでいった。
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