鋭百

 ごくたまに、当たり前のことがとても怖くなる。どくどくと流れる心臓の音や、眠れば明日が来るということ、人々がそれが当然だという顔をして生きていること。
「マユミくん……おーい」
「……ああ、すまない」
 意識を目の前の百々人に戻し、何事もなかったかのように微笑んだ。手元のコーヒーはすっかりぬるくなり、苦みが増していく。
「ね、ボクといる時、何考えてるの」
「何って……お前のことだ」
「うそつき。マユミくん、嘘つくとき、眉がぴくってなるんだよ」
 知ってた? と笑いながら自身の眉を押さえる百々人は、俺のことなんかお見通しなのだろう。百々人の頼んだパフェに乗っている白桃がつやつやと光って、百々人の指先がいっそうやわらかに見えた。
「マユミくんが遠い目をしてる時、ボクはそこにいないんだなあって、さみしくなる」
「それは悪かった」
「でもね、なんとなくわかるよ」
 銀色の長いスプーンを器用に使い生クリームを口元に運ぶその仕草は涼し気で、俺の飲んでいるコーヒーまで甘く感じられるようだった。混ぜてしまえば本当に甘くなるだろうか。
「たまに、どこか遠くに行きたくなる。ここじゃないどこか」
「……遠くに?」
「そう。遠く。ぴいちゃんも、マユミくんも、アマミネくんも知らないところ」
 それならば、彼がもし突然いなくなったとしたら、どこを探せばいいんだ。探さないほうがいいのかもしれない。誰にも告げずに旅だったのなら、知られたくないはずだ。
「ね、マユミくんは、どこに行きたいの」
 俺の口元に生クリームを運びながら――頼んでないのだが――、百々人は小さく尋ねた。口の中がどっと甘くなっていく。鼻に抜ける白桃の香りにくらくらした。どくん、心臓が鼓動を刻む。
「……当たり前が、当たり前じゃないところに」
「当たり前じゃないところ……」
 百々人は俺の言葉を繰り返したのち、俺のコーヒーを勝手に貰い、その苦さに顔をしかめた。ああ、だから生クリームを混ぜてしまおうか考えていたのに。
「たとえば、コーヒーが苦くないところとか?」
「……かもしれないな」
 百々人に水を注いでやりながら、架空の国を思い浮かべる。俺の知っている人も、俺のことを知っている人も誰もいない、この地球のどこか。きっと海も空も青くなくて、パフェも辛いに違いない。
「……もし、どこかに行きたくなったら」
「うん?」
「一緒に行くか」
 百々人の目を見つめる。優し気な、たおやかな目元。時々、俺の向こう側を見ている目元。俺は彼の目が好きだった。なんでも嬉しそうに笑い、どこか儚げなその視線がくすぐったい。これだけは、当たり前ではない国でも、そのままでいてほしい。
「……うん、一緒に行こう。それで、当たり前じゃなくなってから帰ろう」
 くすくすと笑い、ねえ、もう一口どう? と俺の口元に生クリームを運ぶ。さては腹がいっぱいになったな。押し付けようとしたってそうはいかない、と言いたいところだが、どうにもついつい甘やかしてしまう。俺の悪いくせだ。口を開き、スプーンを歓迎する。
「当たり前じゃない国で、当たり前じゃなくなったら、それって当たり前に戻っただけなのかな」
「……そうかもな。でも、それでもいい」
 ごくたまに、当たり前のことがとても怖くなる。コーヒーが苦いこと、パフェが甘いこと、百々人のことがどうにも愛しいこと。それでも、全てが突然なくなったら、きっとおかしくなってしまう。
「当たり前のことを、大切に思えたら、それでいいんだ」
 百々人は、そっか、と言って微笑んだ。俺の体面ばかり整えた微笑みとは違う柔らかな笑みに、心のとがりがなくなっていく。
 二人がかりでやっとのことで食べ終えたパフェの皿を前にして、百々人は「あー、夕飯はいらないかも」と零した。明日の体力のことを考えたら食べた方がいいのはもちろんだが、気持ちはわかる。胸焼けしてしまっては元も子もない。
「マユミくん」
「なんだ」
「あのね、大好き」
「……唐突だな」
「当たり前って、素晴らしいでしょ」
 大きく笑う彼に釣られて笑う。自然に笑えていますように。当たり前に笑えていますように。夕方の雑踏の中、彼だけが特別だった。それも、当たり前のことだった。
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