漣タケ

 人魚姫の物語が、とてもしあわせとは言えない終わり方だと知ったのは、つい最近のことであった。
 一月の空気は凛と冷たく、凛という漢字が冬生まれであることを嫌でも感じさせる。寒さに思わず丸まってしまう背中を伸ばしながら、タケルは海を目指していた。
 電車は少し混んでいた。冬休みが開けたからか、日常は通常運転に戻ったようだ。この時期の座席はあたたかい。電車そのものが暖房器具のようだった。
 いくつか乗り継ぎをしていくうちに、窓の外に海が広がった。人工的に切り取られた海はそれでも壮大で、水平線に圧倒されてしまう。
 駅に降りても、誰も海に心を躍らせていなかった。地元の人にとっては当たり前の光景であるし、冬にわざわざ海を求める人は稀有な存在だ。黒や灰色のコートが電車から排出されたり飲み込まれていく様は、波の音に反してなんと無機質なことだろう。
 タケルは砂浜まで歩いていくことにした。駅周りに土産屋はあるものの、住宅街は静かだった。海の傍で暮らすというのは、どのような生活になるのか、タケルには想像もつかなかった。
 波の音が大きくなる。少し曇った空が眩しく、水面はそれでもきらきらと輝いていた。浅瀬まで行くと、透明な波が遊んでいる。夏ならば足を浸したであろう。でも今は、凍えてしまうから、やらない。
 この寒い水中でも、魚たちはどこかで泳いでいる。その中に、人魚もいるのだろうか。海賊船に乗れば出会えるかもしれないが、タケルはどうやったら海賊船に乗れるのかもわからなかった。そもそも、海賊とは違法行為だ。自ら犯罪者になるつもりはない。
 タケルはスマートフォンを取り出し、LINKの通話ボタンを押した。数コールで、その男は出る。「なんだよ」と怒りの声をあげるのは、どこで寝ているとも知らないライバルだった。
「なあ。今、海に来てるんだ」
『海ぃ? 寒いだろーが』
「ああ。でも、人魚に会えるかと思って」
 自分でもデタラメなことを言っている、とタケルは自覚していた。おとぎばなしを真に受けるだなんて、十七歳で、恥ずかしい。しかし、どうしても海を一目見たかったのだ。人魚がいるかもしれない海を。
「オマエも、来たらどうだ」
『なんでだよ、めんどい』
「人魚姫、見せてやるから」
『はぁ?』
 不服そうな声が耳に響くが、当たり前だ。今から海に来いだなんて、無茶振りが過ぎる。タケルは海の場所を伝えて電話を切り、さあ困ったことになった、と前を向いた。
 漣が来るまでの間に、人魚姫を見つけないといけないのである。
 目を凝らして海を見ても、そこに映るのは波ばかり。潜ることは出来ないし、船も泳いでいなかった。仕方がないので砂浜に座る。ズボンが汚れてしまうのは承知の上でだ。尻が冷えていく。
 砂をさらさらと手にとった。大きな一つの岩だったものが砕かれてこの粒になっているのだとしたら、随分途方もない話だ。どこかで人魚姫の歌声を聞いたことがあるかもしれない砂が、指の間から落ちていく。
 何故海に来たのだったか。タケルはひとつのことに悩んでいた。先ほどの電話の相手、漣についてである。近頃、彼の声を聞くとどうにも動悸がして仕方がないのだ。目を見ると眩しく、いつもより香りも良いものに感じた。
 彼に関するすべてが、ひとつひとつ、鮮やかで仕方ないのだ。離れていると、今どこにいるのだろうと考え――漣は住所不定である――、飯は食っているだろうかと心配をし、気が付くと彼の好物を料理していることがある。どうしてしまったのだろう、と考えに考え、至った結論を消すために、こうして海にやって来た。
 好き、という感情は、悪いものではない。ただ、関係性が問題だった。一緒のユニットとしてアイドル活動をしていく上で、さらにはライバル同士として認識し合っている相手に好意を持つというのは、距離感がおかしくなってしまう。今までのように活動できなくなる、というのがタケルの不安の種だった。順風満帆に活動を続けていたかった。
 砂浜を風が舞う。それに釣られて立ち上がった。ズボンについた砂を払い、足跡をつけていく。誰かの足跡の上書きをしていると思うと、地球に住む人類のなんと多いことか、とまた途方もないことを考えてしまう。
 最初に漣のことを意識したのは、何がきっかけだったか。いつもより歌声が甘い、と感じた時にはもう遅かったのを覚えている。今後の仕事の幅を増やすために、恋の歌や失恋の歌のレッスンをしていた時のことだ。漣は普段からは考えられない、切ない歌声を出した。自分がこの声を聞いていいのか、と少し恥ずかしくなるくらいには優しい、しかしどこかぶっきらぼうな声。タケルは動揺してうまく歌えなかった。ユニットメンバーである道流の真似をして必死にこなしたが、甘い声は出せなかった。
 あの声を、自分だけのものにできたのなら。あの声を、他の誰にも聞かせたくない。そんな風に思うと、身体中が熱くなり、トレーニングの手が止まってしまうほどだった。この調子では一緒に仕事をやっていけない。この気持ちに蓋をしなければならない。海ならば、全てを捨ててしまえると思った。
 けれど、やはり、それは恋だった。漣に一目会いたいと思い、ここまで来いだなんて言ってしまった。この雄大な海を、一緒に見たいと思ってしまった。人魚姫を見せてやるだなんて、でたらめを言ってまで。
 人魚姫の話は、道流から聞いた。昔アニメ映画を見た限りでは、姫と王子は結ばれて、ハッピーエンドだったのに、原作の物語は悲惨だった。泡になって消えてしまう上に、それが美しい、救われた扱いになっているのが、理不尽だと感じた。魔女は何をやりたかったのだろうか。意地悪をして、長い時を生きる身の、退屈さを紛らわしただけにすぎないのではないか。
 人魚姫に、歌さえあればよかった。誰よりも王子を愛していると伝えられる歌声さえあれば、夢は叶ったはずだった。どんな人をも虜にするという人魚姫の歌。聴いてみたかった。こんな冬の海には似つかわしくない。
 タケルは砂浜を歩きながら、この間習った歌を口ずさんだ。漣の歌声がとびきり甘かったものだ。同じように歌っているはずなのに、同じようにならない。じゃり、じゃり、と砂浜が沈んでいく。
 漣が本当にここまで来たら、この恋は終わりだ、と手のひらを握りしめた。来なかったら、そうだ、泡になって消えてしまおう。タケルはそう考えて、波に向き合った。
 美しい長い髪があればよかった。短剣があればよかった。あるのは歌声だけ。けれども無力だ。タケルは先ほどよりも大きな声で歌った。うまく歌えなくて泣きそうになってしまった。届ける手段を自分は持っているのに、届けることのできないもどかしさ。
 会いたかった。声を聞きたかった。迎えに来てほしかった。人魚姫は現れない。とっくの昔に泡になっているからだ。どうしたら見つけてあげられるのだろう。歌うことしか出来ない。
「へったくそ」
 突然の聞きなれた声に、驚いて振り向くと、漣が立っていた。
 どうしてここに、と言いそうになった。だって、電話したのはついさっきだ。タケルは漣をぽかんと見つめていた。
「人魚姫は?」
「……い、ない」
「だろーな」
 漣はそう言うと、ポケットに入れていた手を上に伸ばし、大きく深呼吸をした。潮風が銀髪を揺らしている。
「アイツらは、もう人間の前に現れねーよ」
「……なんでだ」
「歌えなくなったからだ」
 漣は、ん、と言いながら片手をタケルに差し出した。タケルはわけもわからず、その手の上に手を重ねる。聞きたいことはたくさんあるのに、なにも聞けなかった。
「だから、チビまで歌えなくならなくて、いんだよ」
「……歌えてるだろ、俺」
「ばーか。泡になる歌だ」
 二人は砂浜の上に、また足跡をつけた。少しだけ足の大きさが違ったが、今だけ歩幅は同じだ。
 タケルは、漣の言った言葉の意味が理解できずにいた。人魚姫の歌っていた歌は、泡になる歌だったのか? 泡になるのが歌った側なのか、聞いた側なのかわからないが、それならばもう聞くことは叶わないのだろう。漣は大きなあくびをして水平線を見つめた。まるで生まれ故郷を見るかのようなその眼差しに、タケルは俯くことしかできなかった。磯の香りが鼻に満ちて、海中にいる気分になる。
「チビは、海に来たら全部忘れるって思ったんだろ」
「……ああ」
「嘘だから。それ」
 漣は、自分のなにを知っているのだろうと、タケルはいぶかし気に眉をしかめた。恋慕の気持ちを投げ捨てるために波の傍まで来たと言うのに、結局自分は漣を呼び出して、こうして並んで歩いている。漣が迎えに来たらこの恋は終わりだ、とついさっき思ったのに。
 雲と雲の切れ間から、日光が海面に落ちる。昆布だかワカメだかの影が見えて、タケルは恐ろしくなった。あれに引き込まれたら一巻の終わりだ。
「……オマエは、見たことあんのか。人魚」
「どーだかな」
 漣は適当に返事しながら、何かを逡巡していた。まるで過去を思い出すかのように視線を宙に投げる。曖昧な返答はタケルの心にモヤをかけ、何も晴れた心地がしない。
「……歌いたい歌が歌えんなら、それで充分じゃねーのかよ」
「……そうかな」
「チビは」
 漣はタケルの前に身体を翻し、行く手を阻むように立った。七センチの差が壁の様に感じて、タケルは動けなくなってしまう。漣はともすれば潮風に掻き消されそうな声で呟いた。
「チビは、歌えてんのかよ」
「……歌えてるだろ。へたくそでも」
「本気でオレ様に応えてんのかっつってんだよ」
 繋いでいた手を、目の高さまでかかげた漣は、するどい眼光を走らせる。なんでもお見通しだと言うように蜂蜜色は光った。
 ざざ、と潮風が強く吹いた。トンビが空高く舞っているが、この強風のなかでバランスを保つのは難しそうだ。
「……ずっと本気だろ」
「嘘つけ。最近腑抜けてんじゃねーか。バレバレなんだよ」
 射貫くような視線から逃れられず、タケルは言葉につまる。こんなんじゃ呼ばなければよかったと思った。入水でもなんでもして、泡になるのを見届けられるだけでよかったのに。
 会いたいと。この海を見せたいと。声を聞きたいと、思ってしまったから。
「オレ様の故郷はこの地球ゼンブだ。どこにいたってチビは見つけるし、何を消そうとしたってオレ様にはわかる」
 たとえ海相手でもな、と吠えるその口からは、白い吐息が昇っていた。彼の二酸化炭素のひとつひとつがタケルに刺さり、動けなかった膝が笑いだす。
「……歌いたい歌、わかんねえんだ」
「……」
「……何を伝えていいのかもわかんねえ」
 人魚姫は、一心不乱に、ただ愛を伝えたいという目標を持っていた。比べて自分はどうだ。声があるのに、なにも出来ない。泡になれるのは、やはり幸福なことなのかもしれない。
 漣が一歩、タケルに近付いた。これで二人の距離はゼロだ。繋いだ手を引っ張り、タケルの身体を抱きかかえた漣は、乱雑に唇を押し付けた。乱雑だったため、当たった場所はタケルの唇の少しだけ横だった。
「な、にすんだ!」
「これさえできれば、泡にならずにすんだんだよ。チビはどうなんだよ。こんなことすらできねーのかよ!」
 いつもなら、ここで取っ組み合いの喧嘩がはじまる。しかしタケルは、言い返す力は残っていなかった。笑う膝を立て直すのに、すべての力を使っていた。
「……キスができたからなんなんだよ。俺にはもう、夢があるんだよ。それがあるのに、これ以上多くを望めない」
「そんなこと誰が決めた」
「俺ばかりしあわせになっちゃ、ダメなんだよ」
「そんなこと誰が決めたんだよ!」
 漣はもう一度吠えると、今度こそタケルの唇に唇をぶつけた。冬の外気で冷たくなった肌同士が合わさり、長いこと歩いていたことを悟る。
「チビはチビらしく前向いてりゃいいんだよ! 人魚だって最後はコウフクだろうが!」
「幸福だって決めたのは人間のエゴだ、泡になんかなりたくなかったはずだ」
「だからって何でチビが泡になんなきゃなんねーんだよ!」
 膝が笑う。俺の恋心はここで泡になって消える予定だったのに、どうして人間として立っているのだ。漣の手は少し冷えていて、抱き寄せたタケルの背中のほうが温かかった。
「言いたいことあんなら全部言えよ、オレ様がチビから逃げたことあっかよ」
「……ない。オマエはいつも、真正面から俺に立ち向かう」
 タケルには、長い髪も短剣もない。魔法も使えなければ、この寒い中、うまく泳げるわけもない。あるのは声のみだ。
 ならばそれを使わないで、どうする。
「……俺、オマエの名前、呼んでみたい」
「……好きにしろ」
 泡になる前に。この気持ちを形にする前に。タケルは漣から離れて、その蜂蜜色をまっすぐに見た。漣は大きな口を真一文字に結んで、静かにタケルの言葉を待つ。
「……漣」
「……なんだ」
「これからも、一緒に、歌ってくれるか」
「あたりまえだ、バーカ」
 これが、タケルにとって、今の精一杯の告白だった。漣にもそれは届いたようで、二人はもう一度唇を合わせた。太陽はそれをとっくに見破っていたとでもいうように輝き、波も拍手の代わりにざわめいた。
「……なんか、しょっぱいな」
「海だからだろ」
 手を繋いだまま、二人は砂浜を歩いた。バス停までは少しある。海の傍での暮らしに思いを馳せながら、それでも海中よりは暮らしやすいのではないかと口論しながら、二つの靴は行儀よく歩いた。
「人魚姫は、靴が欲しかっただけなのかもしれないな」
「ああ?」
「おなじ道を、歩きたかっただけなのかも」
「……そうかもな」
 腹減った、と不機嫌な声を出す漣の、いつも通りさに安堵を覚えたタケルは笑う。なにも杞憂することはなかったのだ。人魚姫たちは泡になって見えなくなってしまったけれど、自分たちは歌うという手段をいつでも使える。
 バスのはるか上、トンビが泳いでいる。どこかにいる海賊船によろしくな、とタケルは心の中で思った。
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