漣タケ

 みぞれが世界をゆるゆると冷やしていく。ぐしゃぐしゃになった地面を喜ぶ者は誰もおらず、ならばいっそしっかりと雪が降って欲しいとすら願う。交通網が混乱することはわかった上でだ。それほどまでに、みぞれは人々から嫌われている。
 でも、と思う。窓ガラス越しに見るそれは、なんだか氷砂糖みたいで綺麗だ。街灯がじんわりと滲んで、その仄かな明るさがろうそくみたいで。
「冷えますねえ」
 タクシー運転手は独り言のようにそう言った。俺は「そうですね」と答えて、シートベルトに指を滑らせる。冬のタクシーはいつも、どこか寂しい。みぞれが車体を叩く。運転手はおかまいなしに道を進んでくれるから、俺は安心して背もたれに身を預けた。
 アイツはもう、家に帰っているだろうか。アイツは傘を持たない。だからきっと、同じくタクシーに乗っているはずだ。LINKを開こうとして、目を細めた。真っ暗な車内では眩しすぎだ。
『もう帰ってるか?』
 それだけの一言に、色んな意味が込められているのを、アイツは汲み取ってはくれないと思う。気を付けて帰れよ、とか、家に明かりが灯っていると嬉しい、とか、風呂を溜めようぜ、とか。ただの言葉の羅列に、『まだ』と返ってくる。
 足先が凍りそうで、ひとつくしゃみをした。この冷え切った手のひらを、アイツの首元に押し付けてやりたい。とんでもない声で叫んで、本気でキレられるだろうな。想像したら愉快で、思わず口元を綻ばせた。
「お客さん、みぞれのなか咲くあじさいって知ってます?」
 運転手の低い声が、また独り言のように届いた。ウインカーが数度点滅し、車体は右に傾く。
「知らないです、言い伝えとかですか」
「ええ、私の生まれ故郷のあたりの伝説でね。みぞれのなか咲くあじさいをみかけると、なんでも願い事が叶うんだと。そのあじさいは、宝物と呼ばれていました」
「素敵っすね」
 紫陽花って、梅雨のイメージだ。近頃の地球はおかしいから、冬まで咲くあじさいがあってもおかしくはないかもしれないが、みぞれのなかだけで咲くとなると、なかなか見つけるのも大変だろう。なんて、たかが伝説なのに、色々考えてしまった。何色なんだろう。みぞれに色が溶けてしまって、淡い色なんじゃないかと考えた。
 運転手にお礼を述べて、タクシーを降りる。あのおじさんは、あじさいの話を、きっと他の人にもしているに違いない。そのうちの何人が信じるだろう。こうして言い伝えって広まっていくんだ。古びた階段を上る時、滑って転ばないように気を付けるのが大変だった。
「ただいま」
「ん」
 アパートには明かりが点いていた。ほんの少し、アイツが帰るほうが早かったようだ。お互いの鼻が赤い。暖房をつけ、風呂に湯を張る。
 アイツは勝手にヒーターをつけて、その前を陣取っていた。今首筋に手を突っ込んだら、やっぱりキレられるだろう。やめておいた方が得策だ。
「タクシーって、あったかいんだか寒いんだかわかんねえよな」
「オレ様のは寒かった」
 アイツとヒーターの奪い合いをしながら、足の指先をこする。しもやけになってしまいそうだ。施設にいたころは、霜を見つけて踏むのが好きだった。しゃりしゃり、と輝きの音を聞くのが楽しかった。
 湯船が溜まり、アイツと競うようにして入った。俺が湯舟に浸かっている間、アイツが身体を洗う。
「みぞれのなか咲くあじさい?」
 シャンプーの泡を飛び散らせながらアイツは聞く。俺はおじさんから聞いたそのまま話をした。
「そんなモンが宝物なのかよ」
「でもロマンチックじゃないか」
 シャワーが泡を掻き消していく。俺は排水溝に流れていく泡を見ながら、ロマンチックという言葉について思いを馳せていた。我ながら、らしくない。
「ロマンチックなんてガラじゃないだろ」
 アイツも同じことを言う。だけど、でも、そうとしか表現ができない。みぞれのなかに咲くあじさい。
「凍ってて、宝石みたいになってるんじゃないか。だから宝物なのかもしれない」
「びしょびしょの花なんか見て、なんで願い事が叶うんだよ」
 ようは、流れ星に三回願い事を言うのと同じだろう。できるわけがないことを、やってのけることが出来たのなら、なんだって出来る、という。見つけられないものを見つけられたのなら、それだけで幸運だ。
「じゃあさ。勝負しようぜ。どっちが見つけられるか」
 今度は俺がシャワーを浴び、アイツが湯舟に浸かる。同じシャンプーを使っているのに、どうしてこうも髪質が異なるのか。
「上等だ」
 湯船の中で、アイツはにやりと笑った。こうなったら、見つけるまで探し出すに決まっているから、伝説は本物になってしまう。
「俺が見つけたら」
 泡を流しながら、俺は呟いた。タクシーの中から、ずっと思ってたことだ。
「俺が見つけたら、オマエにやると思う。あじさい」
「……なんで」
「俺の夢、もう半分叶ってるから。その先は、自分の力で叶えたいし」
 弟と妹を、見つけることが出来た。ここから先は、願ってどうにかなることじゃない。俯いていると、アイツがざぶりと立ち上がり、俺の腕を掴んで湯舟に引っ張り込んだ。
「じゃあ、オレ様が見つけたら、それチビにやる」
「……なんで」
「オアイコ」
 じゃ、と水をかけられ、鼻が痛くなる。俺は仕返しにと腕を上げようとしたが、それは阻まれてしまった。アイツの手が俺の腕を掴む。
「チビはがむしゃらに前向いてんのがチビらしいんじゃねーか。あじさいだってなんだって使いやがれ」
「……オマエの夢は」
「チビに勝てりゃそれでいいんだよ」
 出る、と言って、アイツは立ちあがった。一人残された湯舟の中で、ああ、これだからみぞれは、と思った。暖房もヒーターも湯舟も敵わない、なによりも熱くなれるものを、アイツに握られている。冷え切った身体が人間の身体を取り戻していく。
 世界が冷えて、溶けていくなか、きらきらと咲く宝石。それを隠すようなみぞれ、氷砂糖。栓を抜いて、お湯が流れていくのを見ていた。
 冬は沈黙の季節だ。でも沈黙のなかに、宝物はある。俺も湯舟から上がって、身体を拭いた。びしょびしょの髪のままヒーターに当たっているアイツに、ドライヤーを使えと吠えた。
 すっかりあたたかくなった指先で、いつか手折るあじさいを想像した。みぞれには負けたくないなと思った。
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