漣タケ
旅行に行けるようになったら、俺たちの世界も広がるんじゃないか。そのために、まずは免許をとろうと思った。
網膜剥離の影響で、片目の視力が少し不安だった。免許をとるには問題ないレベルだが、安心して運転できるようにと、新しく眼鏡も作った。黒いセルの、ボストンタイプ。苦手な座学もこなさないといけないのは想定外で、俺は何度となく教官の目の前でうつらうつらした。
「で、ここドコなんだよ」
「文句があるなら地図を見てくれ」
さっきから同じところをぐるぐるしている気がする(一本道だからそんなことはないはずなのに)。円城寺さんを何度か乗せて練習した助手席に、満を持してアイツを乗せたものの、行きたいところはあるかと聞いたら「うまいもん食えるとこ」の一点張り。俺自身も観光地に詳しくなんかないから、とりあえず海を目指すこととなった。漁港とかの近くなら、うまい店があると信じて。
右手に海が見える。けれど下りていく道がわからない。どこかにコインパーキングはないのか、レンタカーのカーナビは仕事をしない。仕方なく俺たちは、窓ガラスサイズに切り取られた海を見ながらドライブをしている。アイツが窓を開けたから、潮風が鼻をくすぐる。眼鏡が少しずり落ちてることに気が付いて、あわてて押し上げた。
「はーら減った」
「我慢しろ。そろそろどこかに停められそうだから」
アイツが俺の顔をじっと見てくる。いや、見ているのは俺越しの海かもしれない。隣から感じるムスッとした空気に、思わず「うるさい」と言いそうになった。こっちは慣れない運転で精いっぱいなんだ。標識を見て、サイドミラーを見て、バックミラーを見て、右足に込める力は一定で。いろんなところに気を遣わなきゃいけない、アイツに構っている余裕はない。――誘ったのは俺の方なのに。
「チビ、スマホなってんぞ」
左のポケットが震えているが、取れるわけがない。プロデューサーからだろうと思って、俺はアイツに「代わりに出てくれ」と頼んだ。アイツは「命令すんな」と言いつつ、運転という命を預かる行為を俺に任せていることを意識したのか、俺のポケットからスマホを取り出す。
計算外だったのは、聞こえてきたのが女性の声だったことだ。
「もしもし、大河くん? 突然ごめん――」
「チビはオレ様と一緒にいんだよ、邪魔すんじゃねー」
アイツがそこで電話を切ってしまったから、誰からかかってきたのか分からなかった。あ、と俺が言う前にアイツはにんまりと笑い、俺のスマホをなにやら操作する。
「なに勝手に切ってるんだ」
「くはは」
「おい、何した」
「これでもう誰も邪魔しねーな」
アイツはそう言って俺のポケットにスマホを戻す。ちらりと見えた画面が真っ暗だったから、電源を切られたのかもしれない。俺がもっと器用だったら、片手で応戦出来たのに。溜息を吐いて、ようやっと見つけたコインパーキングにハンドルを切る。
「オマエのスマホはどうしたんだよ」
「なんたらモード」
「機内モードか? 緊急の用事があったらどうするんだ」
「ねーよ」
「何で言い切るんだ」
「ねーよ。今は」
苦手な駐車をしている最中で、それ以上深くつっこんで聞けなかった。二人っきりの空間で、息を潜める。バックしますという機械音を数回聞いて、車は無事に白い枠のなかに納まった。緊張していた肩から力を抜いた途端、アイツが俺をひと睨みする。いつのまにシートベルトを外したのか、ぐっと俺に迫り、後頭部と窓の距離が近くなった。
「なに……」
「誰だよ。アイツ」
「……電話の人か? オマエが切っちまったからわかんねえよ」
「おおかた連絡先聞かれて適当に流してたら登録されてたんだろ」
ぐ、と返答につまる。本当にその通りだったからだ。アイツは俺の許可もなしに俺から眼鏡を外す。ほんの少し輪郭がやわらかくなったアイツが現れる。
「今日はチビとオレ様だけの日だっつの」
「……そんなこと、他の人からしたら、知らないんだ」
「……チッ」
アイツは俺の後ろの窓についていた手をどかし、身体を離した。心臓がぞくぞく震えている。キス、されるかと思った。アイツは俺の眼鏡を折りたたんでボトルホルダーに突っ込んだ。なんだ、ただの嫉妬か。いつものことだ。いつものこと。
「メシ行くぞ、メシ!」
「……なあ、海、見てかないか」
ドアを閉め、海の香りをたっぷり纏って、灰色の空を見上げた。強い風が前髪を乱していく。アイツは俺の意見を聞いたのか聞いていないのか、鼻をすんすんやって「コッチ」と歩き出した。
「……酔わなかったか」
「ああ?」
「俺の運転」
「まあ、らーめん屋の方がよく寝られるな」
「……俺もまだまだだな」
海沿いの道は少し斜めになっていて、遠くにトンビが見えた。アイツの少し後ろを歩きながら曲を口ずさんでいると、額がどすんとぶつかった。アイツが立ち止まったのだ。鼻をさすりながら上を見上げると、蜂蜜色の視線が降ってくる。
「どうし……」
声はそこで止まった。塞がれた唇はかさかさしていた。これからリップクリームの必要な季節だ。枯葉が靴の裏を汚していくんだろう。ちょうど今、砂浜から零れてきた砂が手のひらにひっついてくるように。アイツ、少し背が伸びたんじゃないか。
「酒飲むか」
「俺は帰りも運転だから飲めない」
「くはは、ゴメンドーサマ」
そんな言葉、どこで覚えたんだ。女性の影に嫉妬したり、うまい店の匂いを嗅ぎつけたり、慌ただしいアイツの側で、俺も少しは背が伸びているだろうか。ウミネコの鳴く声が聞こえる。途方もない地球の大きさを感じて、カーナビのちっぽけさを改めて頼りなく思った。
アイツはひとつくしゃみをした。俺はそれに笑う。ポケットのスマホの電源が切られていることなんか、すっかり忘れていた。
網膜剥離の影響で、片目の視力が少し不安だった。免許をとるには問題ないレベルだが、安心して運転できるようにと、新しく眼鏡も作った。黒いセルの、ボストンタイプ。苦手な座学もこなさないといけないのは想定外で、俺は何度となく教官の目の前でうつらうつらした。
「で、ここドコなんだよ」
「文句があるなら地図を見てくれ」
さっきから同じところをぐるぐるしている気がする(一本道だからそんなことはないはずなのに)。円城寺さんを何度か乗せて練習した助手席に、満を持してアイツを乗せたものの、行きたいところはあるかと聞いたら「うまいもん食えるとこ」の一点張り。俺自身も観光地に詳しくなんかないから、とりあえず海を目指すこととなった。漁港とかの近くなら、うまい店があると信じて。
右手に海が見える。けれど下りていく道がわからない。どこかにコインパーキングはないのか、レンタカーのカーナビは仕事をしない。仕方なく俺たちは、窓ガラスサイズに切り取られた海を見ながらドライブをしている。アイツが窓を開けたから、潮風が鼻をくすぐる。眼鏡が少しずり落ちてることに気が付いて、あわてて押し上げた。
「はーら減った」
「我慢しろ。そろそろどこかに停められそうだから」
アイツが俺の顔をじっと見てくる。いや、見ているのは俺越しの海かもしれない。隣から感じるムスッとした空気に、思わず「うるさい」と言いそうになった。こっちは慣れない運転で精いっぱいなんだ。標識を見て、サイドミラーを見て、バックミラーを見て、右足に込める力は一定で。いろんなところに気を遣わなきゃいけない、アイツに構っている余裕はない。――誘ったのは俺の方なのに。
「チビ、スマホなってんぞ」
左のポケットが震えているが、取れるわけがない。プロデューサーからだろうと思って、俺はアイツに「代わりに出てくれ」と頼んだ。アイツは「命令すんな」と言いつつ、運転という命を預かる行為を俺に任せていることを意識したのか、俺のポケットからスマホを取り出す。
計算外だったのは、聞こえてきたのが女性の声だったことだ。
「もしもし、大河くん? 突然ごめん――」
「チビはオレ様と一緒にいんだよ、邪魔すんじゃねー」
アイツがそこで電話を切ってしまったから、誰からかかってきたのか分からなかった。あ、と俺が言う前にアイツはにんまりと笑い、俺のスマホをなにやら操作する。
「なに勝手に切ってるんだ」
「くはは」
「おい、何した」
「これでもう誰も邪魔しねーな」
アイツはそう言って俺のポケットにスマホを戻す。ちらりと見えた画面が真っ暗だったから、電源を切られたのかもしれない。俺がもっと器用だったら、片手で応戦出来たのに。溜息を吐いて、ようやっと見つけたコインパーキングにハンドルを切る。
「オマエのスマホはどうしたんだよ」
「なんたらモード」
「機内モードか? 緊急の用事があったらどうするんだ」
「ねーよ」
「何で言い切るんだ」
「ねーよ。今は」
苦手な駐車をしている最中で、それ以上深くつっこんで聞けなかった。二人っきりの空間で、息を潜める。バックしますという機械音を数回聞いて、車は無事に白い枠のなかに納まった。緊張していた肩から力を抜いた途端、アイツが俺をひと睨みする。いつのまにシートベルトを外したのか、ぐっと俺に迫り、後頭部と窓の距離が近くなった。
「なに……」
「誰だよ。アイツ」
「……電話の人か? オマエが切っちまったからわかんねえよ」
「おおかた連絡先聞かれて適当に流してたら登録されてたんだろ」
ぐ、と返答につまる。本当にその通りだったからだ。アイツは俺の許可もなしに俺から眼鏡を外す。ほんの少し輪郭がやわらかくなったアイツが現れる。
「今日はチビとオレ様だけの日だっつの」
「……そんなこと、他の人からしたら、知らないんだ」
「……チッ」
アイツは俺の後ろの窓についていた手をどかし、身体を離した。心臓がぞくぞく震えている。キス、されるかと思った。アイツは俺の眼鏡を折りたたんでボトルホルダーに突っ込んだ。なんだ、ただの嫉妬か。いつものことだ。いつものこと。
「メシ行くぞ、メシ!」
「……なあ、海、見てかないか」
ドアを閉め、海の香りをたっぷり纏って、灰色の空を見上げた。強い風が前髪を乱していく。アイツは俺の意見を聞いたのか聞いていないのか、鼻をすんすんやって「コッチ」と歩き出した。
「……酔わなかったか」
「ああ?」
「俺の運転」
「まあ、らーめん屋の方がよく寝られるな」
「……俺もまだまだだな」
海沿いの道は少し斜めになっていて、遠くにトンビが見えた。アイツの少し後ろを歩きながら曲を口ずさんでいると、額がどすんとぶつかった。アイツが立ち止まったのだ。鼻をさすりながら上を見上げると、蜂蜜色の視線が降ってくる。
「どうし……」
声はそこで止まった。塞がれた唇はかさかさしていた。これからリップクリームの必要な季節だ。枯葉が靴の裏を汚していくんだろう。ちょうど今、砂浜から零れてきた砂が手のひらにひっついてくるように。アイツ、少し背が伸びたんじゃないか。
「酒飲むか」
「俺は帰りも運転だから飲めない」
「くはは、ゴメンドーサマ」
そんな言葉、どこで覚えたんだ。女性の影に嫉妬したり、うまい店の匂いを嗅ぎつけたり、慌ただしいアイツの側で、俺も少しは背が伸びているだろうか。ウミネコの鳴く声が聞こえる。途方もない地球の大きさを感じて、カーナビのちっぽけさを改めて頼りなく思った。
アイツはひとつくしゃみをした。俺はそれに笑う。ポケットのスマホの電源が切られていることなんか、すっかり忘れていた。