漣タケ
今年の夏は蚊がいなかった気がする。あまりの暑さに繁殖しなかったのではないか。
グラビア撮影をする時、虫刺されの跡をいつもコンシーラーで消されるのに、最近その時間をとられない。もしかしたら涼しくなってから出てくるかもしれない。それも思いっきりしぶといのが。
そんなことを思いながら仕事をこなし、無事に終えて帰路に着いた。今朝は早かったからロードワークに行けなかった。代わりに一駅歩いて帰ろうか。手前の駅で電車を降りた。改札でICカードがピピッと鳴り、残金が七百円であることを告げる。チャージして、経費精算しないと。苦手なんだよな、経費精算。
大型のスーパーマーケットを何となく一周し、めぼしい新商品もなかったので何も買わずに出てきた。近くの公園の自販機で飲み物を買おう。空は高く、秋風が心地よい。真夏の間はこのまま地球が滅亡するんじゃないかとすら思っていたのに、なんという過ごしやすさか。家族連れとすれ違いながら、ポケットの中の財布を撫でた。
公園に足を踏み入れると、何となく「あ」と思った。出会う気がしたのだ。待ち合わせなんてしてないのに、俺のスケジュールなんて把握してないはずなのに。やっぱりアイツは、自販機の前にいた。アイツも「あ」と言って、目が合った。
「なんでいんだよ」
「こっちのセリフだ。仕事帰りだ」
アイツも俺もアクエリアスを買い、お互いに「真似をするな」と睨みあった。真似なんかしてない。歩いたから喉が渇いただけだ。その場で半分ほど飲み、一息つく。
遠くで子供たちが縄跳びをして遊んでいる。縄跳びはトレーニングにとても良い。家の中で出来ないから、なかなかやる機会はないが、あんなハードなものを、子供時代はよくやれたものだ。笑い声も聞こえる、余裕があるのだろう。見ていると俺もウズウズしてきた。ここから走って帰るか。ストレッチをしだすと、俺の思考を読んだのか、アイツも脚を伸ばしだした。
「先に帰った方が勝ちな」
「俺の家だ。勝手にそんなことに使うな」
「仕事で疲れてんのかァ?」
くはは、とひとつ笑って、アイツは走り出すポーズをとった。慌てて俺も位置に着く。声に出さずに、ドン、一斉に走り出した。行列の出来るラーメン屋も、百円ショップもぐんぐんと抜かしていく。息が熱い。胸が熱い。
「……なあ」
「喋るヨユーあんのかよ、チビ」
左手に持ったアクエリアスがちゃぷちゃぷと揺れる。犬の石像のある一軒家を曲がって、細い道に入ると、オシロイバナが両脇に咲いている。
「オマエさ、よく花食ってるだろ」
「蜜だ、ツツジっつったか」
「……はちみつ、買ってなかったなって」
「メシに使わねーだろ」
「ホットミルクに入れたり、パンケーキにかけたり」
「作るんなら食ってやってもいーぜ」
喉のケアにも良いし、本当に買って帰ろうか。オシロイバナの道を過ぎて、コンビニのある通りへ。雲の流れが早いのか、俺たちの走るのが早いのか。
「……チビ、前髪伸びたな」
「そうか?」
「邪魔」
「……そうか」
こういう、なんでもない会話をするの、いつぶりだったか。最近お互い一人での仕事が多かったから、顔を合わすことがなかった。そうか、前髪が伸びるくらい、会話してなかったか。
床屋の予約をしなければ、と思っている間に、アパートが見えてきた。俺もアイツも徐々にスピードを上げ、両者一歩も譲らない。最終的には全力疾走のち、同時にドアにタッチした。引き分けということでいいだろう。首筋に汗が流れる。
ただいまを言う前に、二人ともアクエリアスを飲み干した。飲み終えた俺の前髪を、アイツはかきわける。俺の額の汗をみて、うん、と何かに納得していた。アイツは俺の額が好きだ、たぶん。寝起きとかによくかきわけられる。
俺もアイツの額を見たくなって、手を伸ばそうとしたら、アイツに振り払われてしまった。まあそうだよな。アイツは触れられるのを嫌う。俺には触れる癖に。鍵を開けて中に入って、ペットボトルを捨てた。
「今年ってさ」
「あ?」
「蚊、いなかったよな」
「……そろそろ出てくる。公園で寝てると」
「……うちで寝ろ、そういうときは」
シャワーを浴びようと服を脱ぐと、アイツはすでに浴室にいた。お湯で濡れた俺の額を、アイツは撫でるのだろう。タオルを二人分用意して、俺はリストバンドの日焼け跡を見た。明日にははちみつを買ってこよう。いつでもアイツがこの家でくつろげるように。
グラビア撮影をする時、虫刺されの跡をいつもコンシーラーで消されるのに、最近その時間をとられない。もしかしたら涼しくなってから出てくるかもしれない。それも思いっきりしぶといのが。
そんなことを思いながら仕事をこなし、無事に終えて帰路に着いた。今朝は早かったからロードワークに行けなかった。代わりに一駅歩いて帰ろうか。手前の駅で電車を降りた。改札でICカードがピピッと鳴り、残金が七百円であることを告げる。チャージして、経費精算しないと。苦手なんだよな、経費精算。
大型のスーパーマーケットを何となく一周し、めぼしい新商品もなかったので何も買わずに出てきた。近くの公園の自販機で飲み物を買おう。空は高く、秋風が心地よい。真夏の間はこのまま地球が滅亡するんじゃないかとすら思っていたのに、なんという過ごしやすさか。家族連れとすれ違いながら、ポケットの中の財布を撫でた。
公園に足を踏み入れると、何となく「あ」と思った。出会う気がしたのだ。待ち合わせなんてしてないのに、俺のスケジュールなんて把握してないはずなのに。やっぱりアイツは、自販機の前にいた。アイツも「あ」と言って、目が合った。
「なんでいんだよ」
「こっちのセリフだ。仕事帰りだ」
アイツも俺もアクエリアスを買い、お互いに「真似をするな」と睨みあった。真似なんかしてない。歩いたから喉が渇いただけだ。その場で半分ほど飲み、一息つく。
遠くで子供たちが縄跳びをして遊んでいる。縄跳びはトレーニングにとても良い。家の中で出来ないから、なかなかやる機会はないが、あんなハードなものを、子供時代はよくやれたものだ。笑い声も聞こえる、余裕があるのだろう。見ていると俺もウズウズしてきた。ここから走って帰るか。ストレッチをしだすと、俺の思考を読んだのか、アイツも脚を伸ばしだした。
「先に帰った方が勝ちな」
「俺の家だ。勝手にそんなことに使うな」
「仕事で疲れてんのかァ?」
くはは、とひとつ笑って、アイツは走り出すポーズをとった。慌てて俺も位置に着く。声に出さずに、ドン、一斉に走り出した。行列の出来るラーメン屋も、百円ショップもぐんぐんと抜かしていく。息が熱い。胸が熱い。
「……なあ」
「喋るヨユーあんのかよ、チビ」
左手に持ったアクエリアスがちゃぷちゃぷと揺れる。犬の石像のある一軒家を曲がって、細い道に入ると、オシロイバナが両脇に咲いている。
「オマエさ、よく花食ってるだろ」
「蜜だ、ツツジっつったか」
「……はちみつ、買ってなかったなって」
「メシに使わねーだろ」
「ホットミルクに入れたり、パンケーキにかけたり」
「作るんなら食ってやってもいーぜ」
喉のケアにも良いし、本当に買って帰ろうか。オシロイバナの道を過ぎて、コンビニのある通りへ。雲の流れが早いのか、俺たちの走るのが早いのか。
「……チビ、前髪伸びたな」
「そうか?」
「邪魔」
「……そうか」
こういう、なんでもない会話をするの、いつぶりだったか。最近お互い一人での仕事が多かったから、顔を合わすことがなかった。そうか、前髪が伸びるくらい、会話してなかったか。
床屋の予約をしなければ、と思っている間に、アパートが見えてきた。俺もアイツも徐々にスピードを上げ、両者一歩も譲らない。最終的には全力疾走のち、同時にドアにタッチした。引き分けということでいいだろう。首筋に汗が流れる。
ただいまを言う前に、二人ともアクエリアスを飲み干した。飲み終えた俺の前髪を、アイツはかきわける。俺の額の汗をみて、うん、と何かに納得していた。アイツは俺の額が好きだ、たぶん。寝起きとかによくかきわけられる。
俺もアイツの額を見たくなって、手を伸ばそうとしたら、アイツに振り払われてしまった。まあそうだよな。アイツは触れられるのを嫌う。俺には触れる癖に。鍵を開けて中に入って、ペットボトルを捨てた。
「今年ってさ」
「あ?」
「蚊、いなかったよな」
「……そろそろ出てくる。公園で寝てると」
「……うちで寝ろ、そういうときは」
シャワーを浴びようと服を脱ぐと、アイツはすでに浴室にいた。お湯で濡れた俺の額を、アイツは撫でるのだろう。タオルを二人分用意して、俺はリストバンドの日焼け跡を見た。明日にははちみつを買ってこよう。いつでもアイツがこの家でくつろげるように。