漣タケ

 帰路、雨に降られた。はじめは気のせいかと思う雫のひとつふたつ、そのうちぱらぱらと存在感が大きくなり、やがて道行く人々がみな早歩きになっていく。折り畳み傘がある者はカバンを漁っていた。あいにくと俺は持っていない。
 コンビニに寄って傘を買うには、家が近すぎる。早歩きになるほかなかった。リストバンドで瞼をぬぐいながら濡れていく道を急いでいると、見慣れた赤が家の前に突っ立っているのが見えた。
「来てたのか」
「雨」
「わかってる」
 アイツはいつも手ぶらでやってくる。寝るためだとかメシにありつきたいからとか、時にはなんの理由もなく。今日はさしずめ雨宿りか。鍵を開けドアを開けるなり、アイツはするりと部屋に身体を滑り込ませた。
「風呂入るか?」
「いい」
 勝手にタオルを手に取り、窓際に腰かけたアイツは外を見ていた。世界が灰色に染まっていくのを静かに見るのは、俺も好きだ。濡れたティーシャツを着替え、反対側に座る。
 向かいのアパートの一階のベランダに、洗濯物が干しっぱなしなのが見えた。タオルと子供服。こういう時、わざわざ教えに行ったら不審者に思われるのかな。頼む、早く気付いてくれ、と思いながら、見つめることしか出来ない。
 アイツは家々の屋根を見ていた。俺になにか言うでもなかった。雨の日の沈黙は心地よい。貰い物の紅茶でも淹れようかと、お湯をわかすために立ち上がると、アイツの手がそれを制した。
「なんだ」
「雨、って、誰が喜ぶんだ」
「……よろこぶ」
 また、突拍子もないことを。こういう時、円城寺さんやプロデューサーなら、納得のいく答えをすぐに用意できるんだろうか。俺はぼそぼそと「農家とか」と口に出してみてから、改めて頭を回転させる。
「……濡れたい人」
「はっ、なんだそりゃ」
「乾いてる人。潤いが欲しい人」
 例えば、オマエとか。俺はそう言うのをやめて、アイツの手を見つめた。アイツらしからぬ、切りそろえられた爪。雨足が強まっていく。
「……今、喜んでる奴は、乾いてたのか」
「そうじゃないか」
「喉みたいに」
「ああ。目みたいに」
 アイツはゆっくりと腰を上げると、俺の正面に立った。蜂蜜色の瞳が俺を射貫く。俺の海色の瞳が、アイツの目の中で俺を見る。雨が窓を叩く。誰にも家に招き入れてもらえずに、彷徨っている雨が。
 アイツの唇はなま温かかった。俺はどうしてアイツが俺にキスをするのかわからない。好きだとも、愛してるとも言わないその牙は、俺の唇を撫でるだけだ。そんなことをしたって雨はやまないのに。
「……かわいてる」
「え」
「チビ」
 そんなまさか。俺は言い返そうとしたが、アイツが強く俺の腕を引くから、言葉に詰まってしまった。
「何するんだ」
「濡れに行くぞ」
 窓際から玄関までなんて、俺の暮らす小さな家じゃ数歩だ。アイツは俺に靴を履くよう促し、俺はなにがなにやらわからぬままそれに従い、ばしばしと降る雨の中、ドアを開けた。灰色の、潤った世界。十月の匂い。
「……もう、いいか。笑い飛ばせば」
 どれだけ濡れたって構わない。後で風呂に入ればいいだけだ。俺はアイツの隣に並んで走り出した。服がみるまにしっとりと重くなっていく。向かいのアパートの洗濯物のことを言えなくなってしまった。
「チビ」
「なんだよ」
「笑ってろ」
 勝手な奴だ。勝手に家に来て、勝手に雨宿りして、勝手にキスをして、勝手に連れ出して。通り過ぎる人々がびっくりしながら俺たちを見るのを、どこか愉快に感じていた。そうか、みんな、乾いているんだ。
 濡れるって、楽しいんだ。
「……ははは」
「なんだよ」
「滑稽なだって」
 それを聞くとアイツはにんまりと笑い、走るスピードを速めるもんだから、俺も負けじと歩幅を大きく取った。道端の水たまりが黒々と笑っている。
「地球が青いのって、俺たちが愉快でいるためなのかもな」
「オコガマシーな。チビのくせに」
 このまま、どこまでも走っていきたい。雨のヴェールの向こう、見慣れたはずの景色も灰色に染まっているのに、なんだか色鮮やかに思えて、俺たちはずぶずぶの靴をけりあげながら、からからと笑ったのだった。
8/69ページ
スキ