漣タケ

 久しぶりに鈍痛と憂鬱が降ってきた。
 PMSも生理痛も、そんなに重い方ではないのに。ごくたまにこういうことがおきるから、女の身体って不便だ。
「チビ、なに丸くなってんだよ」
 ミーティングの予定時刻より早く事務所に来たものの、痛みで動けずにソファに沈みこんでいた。アイツに弱っているところを見せることなどないから、どうやら動揺しているようだ。ざまあねえな、とか、情けねえな、とか言われるくらいはすると思ったのに。
 どろり、と股間に嫌な感触が広がる。ソファに染みてないか不安になったが、俺はクッションに顔を押し付けたまま微動だに出来なかった。吐く息が熱い。その熱さに泣きそうになる。生きるということの重みがのしかかる。
 ソファが大きく軋み、隣が沈む気配がした。アイツがどうして隣に座ったのかわからない。いつもなら向かいに座るのに。変な匂いがしないか気になったが、逃げることもできない。腹が痛い。しばらく沈黙が続き、アイツは痺れを切らしたのかイライラとした声を出した。
「……どーしたらいいとかあんのか」
「……なにが」
「なんか食うとか飲むとか!」
「……くすり」
 全ての元凶は薬を切らしていたせいだ。普段飲まないから、薬が家にないことにすら気付けなかった。薬局に寄ればよかったのだが、そんな気力もなかった。事務所に来るのがやっとだった。
「ドラッグストアにあるから……」
「クスリだぁ?」
 何かを逡巡した時間が流れたのち、アイツがなにやらもぞもぞ動いたかと思うと、電話の発信音が聞こえた。誰かと連絡をとろうとしているのか。こんな時に誰に。
「おいらーめん屋! どこいやがる!」
『すまん、前の仕事が押してて。どうした?』
 円城寺さんの声が聞こえる。今こちらに向かっているだろうに、突然電話がきたらそりゃ驚くよな。俺はなんとか顔を右に向けて、アイツを薄目で見つめた。
「チビが腹痛がっててクスリ買って来いだと」
『……なるほど。自分はまだかかりそうだから、漣、買ってこれるか?』
「そんぐらい出来るに決まってるだろーが! どれ買うのか教えやがれって言ってんだ!」
 ああ、そうか、詳細を言ってなかった。吐き気で口を開けずにいるせいで、円城寺さんにまで迷惑をかけて申し訳ない。なんだっけ、自分はなんていう薬を飲んでたんだっけ。安くなってる、目立つPOPのを適当に買うことしかしてこなかったせいで、薬の名前もわからない。
『イブプロフェンって成分が入ってるやつだ。店員に聞けばわかる』
「いぶ……わかんなかったら承知しねえからな」
 アイツは電話を切ったあと、俺に向かって「丸まってろ」と呟き、事務所を出て行った。イブプロフェン。そうだ、確かそんな名前の成分だった。円城寺さんはすごいな。よくそんな難しい名前を覚えているな。
 アイツにお礼を言いそびれたことを思い出しながら、まあそれは買ってきてくれたあとに言えばいいか、と思い直す。もう一度顔をクッションに埋めて、大きく深呼吸をした。腹の奥がずきずきと叫んでいる。アイツが生理をどこまで知っているのかわからないが、深く聞かないでいてくれて助かった。
 ぐらぐら揺れる頭を休ませることに集中する。白湯でもいれて貰えばよかったか。一人になった事務所は寂しかった。いつもはあんなに賑やかなのに。静けさすら痛みの一部になっている気がする。
 どんどん膨らんでいく胸が忌々しかった。腹筋が割れていても「細い」と言われることが複雑だった。強くありたい。ずっと強くありたい。アイツに絶対負けたくない。男とか女とかそんな理由では、絶対に。
 痛みでトレーニングも出来ないと、弱くなった気がしてしまって辛い。ダンスレッスンが無くてよかったと安堵した自分が嫌だ。もっと強くいれば、この痛みも少しはマシになるだろうか。
 何分そうやって過ごしていたのか、半ば気絶しているうちに、ドアの開く音がした。次いでガサガサと袋の揺れる音、水道から水を汲む音。ゆっくりと上体を起こすと、目の前に銀色の箱とコップが置かれていた。
「……これでいーのかよ」
「……ありがとう。世話かけたな」
 俺は箱からシートを取り出し、二錠手のひらにとって口に含んだ。この時期の水道水は少しぬるい。
「……チビが丸まってると、チョーシ狂うんだよ」
「ああ」
「……張り合いがねえ」
「ああ」
 アイツなりに、俺を労わって励ましてるんだな、と思う。再びうずくまった俺の隣に座った彼は、そっと俺の背中に手を置いた。そこから熱が広がって、身体がほかほかとあたたまっていく。
「……オレ様がクスリ買ってきてやったんだから、感謝しろよ」
「……ああ。サンキュ」
 くぐもった声が、アイツに届いているかはわからない。届いていなかったら、また改めて言えばいいのだ。薬の効いた頃に。イブプロフェンが浸透した頃に。
「……早く元通りになりやがれ」
 ぽそりと呟いた彼の声が、耳から腹に伝わっていく。クッションがあってよかった。そんなつもりがなくても溢れる涙を見られなくてすんだから。
 遠くにバタバタと足音が聞こえる。プロデューサーか円城寺さんがやって来た音かもしれない。数度深呼吸をして、またゆっくりと起き上がった。頑張れる。俺は大丈夫。顔を乱暴に拭ったのを、アイツは見て見ぬふりをしてくれた。
 プロデューサーが「遅くなってごめんね」と言いながらドアを開けるのを、「遅せえんだよ」と立ち上がり迎える彼の陰で、俺は濡れたクッションをひっくり返した。アイツが消し去ってくれたおかげで、弱い俺なんてどこにもいない。
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