漣タケ

 ある日、漣が神になった。
 神なんて、信じてこなかったもんだから、彼が何を言っているのかわからない。
 手の中のスズメを生き返らせたからと言って、全知全能になったとは限らないのに。
「……神、って、何するんだ」
「……イノチに、さわれる」
 スズメは軽やかに、彼の手の中から飛び立った。公園の隅で潰れていたそれをひょいと彼が拾い上げた時に、俺は咄嗟に「菌がたくさんいるかもしれないぞ」と言ってしまったのだが、そんなことはとても些末であるように感じた。
「リンネテンセーって信じるかよ、チビ」
 アイツは黄金色の目をぎょろりとこちらに向け、俺はその視線から動けなくなった。輪廻転生についてなんて、今まで考えたこともない。
 いつもの朝だった。いつもの朝だったから、いつも通りにロードワークに出かけた。途中でいつもの公園に寄った、そこでアイツは立っていた。
 ただ立っていただけだった。何をするでもなく、何を見るでもなく。普段なら無視するのに、何故だか今日は、ほっとけなかった。俺はアイツに近寄って、「どうした」と声をかけた。
 ――カミサマ、なんだとよ。オレ様。
 アイツはそう言って、スズメの死体を拾いに行った。そうして今に至る。
 誰かに唆されでもしたのかと思ったが、アイツがそんなに簡単に他人の言う事を信じたとは思えず、現に生き物を蘇らせたのを目の当たりにしてしまったので、俺も信じざるを得なく。
 俺は、輪廻転生、と口の中で呟く。前世とか来世とか、そんなものは生きている人間の慰めだと思っていた。その考えで誰かが救われているならいいことだが、今生きているこの世界が全てだ。前世がうさぎでも、来世がクマでも、今の俺には関係ない。
「……さわれる、んだよ。チビに触れる」
「……触るくらいいつでもできるだろ」
 アイツは頭をぐしゃぐしゃとかき回した。歯を食いしばり、地団駄を踏む。何かを必死に耐えているようだった。風が生ぬるい。地面から熱気が漂ってきて、息がしにくかった。アイツは滝のような汗をかいていた。
「……おい、大丈夫か」
「チビ……ッ」
 アイツは俺の首を掴んだ。避けられたはずなのに、身体がすくんで動けなかった。身体じゅう全ての鼓動が喉に集まっていた。アイツの手のひらはとても冷たかった。
「触れるんだよ、チビの、命に……ッ」
「……だからどうした。殺すのか」
「んなワケ……!」
 アイツは俺を突き飛ばすと、己の手を見ながら肩で息を切らせていた。よろけた俺は喉を擦りながらアイツに近付く。
「カミサマだからって、俺を好きにできると思うなよ」
「ちげーんだよ……できるんだっつの……!」
 アイツのこんな顔、見たことない。アイツが何に葛藤しているのか、いくら考えてもわからなかった。だけど、アイツの力は本物だ。スズメは生き返った。俺を手にかけるくらい造作もないはずだ。
 俺を、どうしたいんだ。アイツは何に悩んでいる。
「……聞くから。ちゃんと聞くから」
「……ッ」
「何がしたいんだ」
「……だから……っ」
「漣」
 俺は、アイツの名前を口にした。普段、絶対に呼ばないその名前。アイツだって俺のことを名前で呼ばない。俺たちは互いに、チビ、オマエ、としか呼び合ってこなかった。
 名前とは、命である。どこかで聞いた話を思い出した。野良猫に名前をつけたら、その猫の命はお前の責任下にあるのだ、と。――チャンプ、名前、ふたつあるな。だから元気に生きてるのかな。とりとめのない考えがかけぬけていく。アイツは驚いたように俺を見た。
「ちゃんと聞く。俺をどうしたいんだ」
 命の名を呼んだ。命と対峙している。命の重さはわからないけれど、今のアイツはきっと理解している。
「……チビが、手に入るんだよ」
 アイツは両手を握りしめた。俺の心臓は、その拳よりも重いだろうか。
「あんなに、あんなにこの手でチビをぶっ倒すって思ってたのに……!」
「オマエじゃ俺に勝てない」
「……今じゃ、出来んだよ。簡単に」
 アイツは俺の胸に手を置くと、ぎゅ、と拳を固く握った。瞬間、俺は息苦しさに倒れ込む。一切の酸素が入ってこなかった。心臓が痛い、苦しい、助けを呼ぶことも叫ぶこともできない。
「……な」
 俺はぜいぜいと呼吸をし、涙目でアイツを見上げる。アイツは苦しそうな顔をしていた。苦しいのはこっちだ、と思うと同時に、彼の苦しみを理解できることはないのかもしれない、と悟った。
 なんせ、彼は、神なのだから。
 アイツは俺を無理やり立ち上がらせると、「チビって軽いな」と呟いた。大きなお世話だ。お前より背が小さいのだから仕方ないだろう。
「……それで。これからオマエ、どうするんだ」
 呼吸の整った俺は、改めてアイツに向き直る。アイツが俺の命に触れることはわかったが、それ以上のことをするとは思えない。
「……どうもしねーよ。チビはチビだし」
「意味がわかんねーよ」
 アイツが空を見上げたので、釣られて俺も見上げる。カンカン照りの真夏だ。雲一つない。
 さっきのスズメは、どこかで優雅に舞っているだろうか。この暑さの中じゃ、早々にバテていてもおかしくはない。新しい命を、どうか生き延びて謳歌してほしい、と思った。
「……とりあえず、さ」
 額の汗を拭いながら、俺は大きな声を出した。切り替えって、大事だ。人生において、それは往々にして。
「走らないか。今日まだ競争してないだろ」
「……頭ゆだってんじゃねーの」
 アイツは呆れた声を出したが、俺が走り出す構えを取ると、あわてて同じ姿勢をとった。どん、で俺たちは走り出す。いつものコース。いつもと同じ足取り。だけど、いつもと違う朝。
 今日、漣が神になった。
 これから世界がどう変わっていくのかは知らない。
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