漣タケ

 問題は山積みだった。まずはなにより、シャワーを浴びた方が良いと判断した。
 要は、とカイは考える。要は、酔っぱらっていたのだ。日頃の疲れをバーで癒していたにすぎない。そこはこぢんまりとしたバーで、半地下にあって、すこし籠った香りがする。いつもは古いウイスキーを頼むのだが、昨日はビールで喉をうるおしていた。
 常連客は自分の他おらず、なかば眠気にすら襲われていた時、レッカはやってきた。まるでここにカイがいることを知っているかのように、当たり前に隣の席に座り、同じモンを、と頼んだ。レッカがビールを飲めるだなんて意外だった。その前に、どうしてここに来たのかを問うた方がいいことに気付く。酔った頭はなかなかうまくまわらない。
「いつもならこんな顔しながら残業してるのに、今日はいねーから」
 レッカは眉と眉の間に指で皺を作ってみせ、けらけらと笑う。どうやら大切な用事ではないのだと察したカイは、二杯目も同じビールを頼んだ。新しいジョッキと入れ替わりに、ぬるくなったジョッキが片付けられていく。
「オマエ、普段酒飲まないだろ。頭痛くなるとか言って」
「ヘーキだ。マジで痛くなるわけじゃねーっつうか」
 レッカはそう言ってジョッキを煽り、一口で大半飲んでしまった。まあ、酒を断りたい理由くらい、彼にもあるのだろうと結論づけて、カイは己のジョッキを傾ける。泡が口の周りを覆う。口の奥の方に広がる苦みに、大人の味だ、と思った。コーヒーもそうだけれど、昔は苦くて飲めたものじゃなかった。
「……こーやって二人で酒飲むのって久しぶりだな。いつもエンドーさんがいる」
「オッサンも親父もしつけーよ」
 ツマミのオリーブをピンで刺し、口に運ぶ。塩辛さが心地よく、身体が喜んでいるように感じた。カイの真似か、レッカもオリーブに手を伸ばす。
「知ってっか? オリーブって自家受粉できねーんだよ」
「へえ。……なんかまずいのか、それって」
「オマエそーいうとこあるよな」
 いきなりそのような話題を振られても、カイは植物に興味がなく、曖昧な返答しかできなかった。レッカは肌に出やすい体質なのか、顔や耳を赤く染めながら、それでもビールを飲む手を止めない。
「オレ様たちならしっかり交配できんのにな」
「……口説いてるつもりか? ソレ」
「そーだっつったら?」
「アホか。男同士で交配はできない」
 カイは苛立たし気に、カウンターに指をトントンと落とした。客はいないにしても、マスターはこの会話を聞いている。バーとは秘密を守る場とされているから他言はされないだろうけど、何かの拍子に――そう例えば、マスターがひどく酔っぱらってしまってポロっと口から零してしまうとか――周りに広まってしまったらと思うと、ぞっとする。KDGは噂話が回るのが早い。
 目の前に三杯目のビールが運ばれてきて、カイが驚いていると、レッカの前にも新しいジョッキが運ばれた。ああ彼が俺にももう一つと注文したのか、と理解した頃には、カイの頭はくらくらとしていた。チェイサーで水を頼もうにも、腹がちゃぷちゃぷとしていた。
「これイッキできたらオレ様の勝ち」
「ばか、俺三杯目だぞ」
「んで、お前が負けたらネコな」
「だからヤらねーって言ってるだろ」
 そう言っているうちにレッカが飲む構えをしたので、カイは慌ててジョッキを手に取った。せーので同時に反り返り、ごくごくとビールを飲み干していく。結果はごく僅差ではあったが、レッカの方が早くジョッキを置いた。
「……気持ち悪い」
「送ってく」
「ヤらねーからな」
「へいへい」
 ――カイには、そこからの記憶がなかった。
 そして、今自分の目の前に広がる光景に、ガンガン鳴る頭を悩ませるのだった。――脱ぎ散らかした服、ひりひりと枯れた喉、全裸の男。
 ゴミ箱にはティッシュが丸めて捨ててあり、そのうちのどれかが体液を拭いたものだとは信じがたかった。怠い腰を持ち上げてシャワー室に行こうとすると、横から白い腕が伸びてきて、がっちりとカイを捕まえる。
「よく眠れたかよ、ハニー?」
「……信じられない。酔っ払いを襲うなんて」
「合意の上だ」
「絶対嘘だ」
 カイがシャワー室に行こうとすると、あろうことかレッカも付いて来ようとするので、カイは全裸のまま彼をなだめる他なかった。レッカは仕方ないと諦め、勝手に冷蔵庫を漁る。シャワー室の外から「この家なんもねーじゃねーか」という声が聞こえた。
 シャワーを浴び終えると、レッカは服に着替えていた。シャワー浴びなくていいのか、と驚いていると、「自室で浴びる」と返答され、カイは納得した。コイツはコイツなりに、わきまえているのだ。
 しかし、事態は最悪だ。まさかレッカに抱かれる日が来ようとは――何度となく口説かれてはおり、不快ではなかったものの――思ってもいなかったので、この先の付き合い方をどうしていこう、という悩みをどうにか解決したい。
「なあ。俺とオマエってもう付き合ってるのか」
「……一回セックスしたら恋人になると思ってるあたり、チビもオコチャマだな」
 靴を履きながらレッカはそう言い、カイの頭を掻きまわす。あたりに水しぶきが飛んだ。レッカは自身についた水を服で乱暴に拭きとり、「いいぜ」と言った。カイは数秒黙ったのち、小さく問いかける。
「……恋人って、何したらいいんだ」
「今まで通りでいいだろ」
 これで自家受粉しなくて済んだな、とレッカは唄うように言い、カイの家を後にした。残されたカイは、口の中にオリーブの塩気を思い出す。自家受粉。しなくて済んだということは、悪いことなのか。自家受粉。
 朝食をどうしよう、と思った。レッカの言う通り、カイの家には何もないのだった。どこかで買っていくか、食っていくか。まずはドライヤーだ。相変わらず頭はガンガンとしていたし、喉もひりつくし、腰は重かったが、カイは今日という日をつとめて普段通りに過ごそうと決めた。何もなかったのだ。ただ、レッカと「交配」をしてしまっただけで。
 ドライヤーの最中に、自分の首元にしっかりとキスマークがあるのを見つけるまでは、カイは冷静であった。レッカの端末にカイからの着信が怒涛に入るまで、あと数分。
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