漣タケ

 頭痛がおさまらない。
「おえっ」
 トイレに籠って何分になるかわからない。胃の中の物は出し尽くした。えずくたびに出てくる涙が鬱陶しい。
 薬というものは便利だった。飲めば飲んだだけ頭痛がおさまった。だから、徐々に飲む量が増えていった。そしてだんだん、身体がおかしくなっていった。
 薬を飲まないとくらくらする。息が苦しい。動悸がうるさい。腹もいたい。そして、気持ち悪くなって、吐瀉する。
「う、え……」
 持ち込んだコップの水で口をゆすぐ。慣れたものだ。こうなることが分かって、あらかじめ用意ができるまでになった。嫌な慣れだ。
 めまいを落ち着かせていると、こんこんと扉を叩く音がした。
「おい、大丈夫か……?」
 この部屋の主だ。近頃は、吐くためにコイツの部屋を訪れている。何かを聞きたそうな、でも踏み込むのをためらい聞いてこない、そんな状態で放っておいてくれるのがちょうどよくて、何も言わずにトイレに籠れる。
「ほっとけ」
「……風呂、ためとこうか」
「いらねー」
 ある程度落ち着いて、トイレから出る。自分の痕跡を残したくなくて多少掃除もした。これで文句はないはずだ。台所でコップに水を注ぎ、一気に飲み干しながら、ああ、さっき飲んだ薬も出て行ってしまったと惜しくなった。

 覇王がいなくなった。数日前から姿を見かけない。それ自体は仕方のないことだ、飼っているわけではないのだから、好きに生きればいい。ナワバリを変えたのかもしれないし、誰かに拾われたのかもしれない。しかし、ひとつ、気になることがあった。
 猫は死ぬとき、姿を消す。
 もし、死期が近付いているのだとしたら。それならば最後にひとこと、別れを告げたかった。一目見たかった。撫でてやりたかった。チビの家の中に所在なさげにニボシが置いてある。
 満開の桜が不気味だった。なぜこんなに誇らしげに胸を張っているのだろうかと。桜の枝は折れやすいから登れない。降ってくる花びらからしか、その香りは嗅げない。つつじのように蜜を吸えない。邪魔なばかりだ。
 ポケットに入っている程度の金で、シャベルを買った。スコップは買えなかった。木の根元に差し込み、土をえぐり取る。
 桜の下には、死体が埋まっているのだと。いつ、どこで、誰から聞いたのか分からない。だけど、探さなければいけない気がした。
 深く、深く穴を掘る。いないでくれ。こんなところにいないでくれ。いる訳ないけど、だって、桜はこんなにも満開だから。
 覇王にだけ、どうしてこんなに固執するのだろう。他にも野良猫はたくさんいる。おそらく、名前をつけたからだ。名前は、命を与える行為だ。覇王と呼べば振り返るし、チビがチビのつけた名前で呼べばそれにも振り返る。ふたつ名前があるのだ。ふたつ、命があるのだ。それはとんでもなく重いものだ、ひとつの命でもこんなに持て余しているのに。
 ぽっかりと開いた穴の中は真っ暗で、全ての残酷がつまっているようだった。もちろんこんなところに死体が埋まっているはずはない、少し考えればわかることだ。いや、考えなくたってわかる。この桜は、覇王と出会う前から咲いている。
 気持ちが悪い。頭がくらくらする。胃が熱くなって、液体が込み上がってくる。オレ様は、穴の中に嘔吐した。さっき掘ったばかりの穴が汚れていく。桜の養分になるとはとてもじゃないが思えなかった。土を被せてしまえば、証拠は隠滅。完全なる隠蔽。オレ様のこんな姿を知っているのは、チビだけでいい。

「やめろよ。オーバードーズ」
 ある日、チビが神妙な面持ちで呟いた。オーバードーズ。何のことやら。昔は飲むことを嫌っていた薬の粒を、今ではいともたやすく飲み込む。頭痛が酷い。覇王はまだ見つからない。
「薬を大量に飲むことだ。……身体、おかしくなる」
「オレ様がこの程度でおかしくなるかよ」
「現にもうなってるだろ。仕事にも支障出るぞ」
「出さねーよ。出したとこみたことあんのか」
「それは……ないけど」
 悔しそうに唇を噛むチビを見て、何も思わないわけではない。だけど、覇王はまだ見つからないのだ。毎日いつもの路地裏に行くが、持って行ったニボシをただ持ち帰るだけ。オレ様が食ったって吐くだけだ。やるせなくなって、どうしようもなくなって、どうせなら雨がどしゃぶりに降ればいいのに。桜を全て流してしまえばいいのに。
「オマエが……心配なんだよ」
 チビと長らく、触れ合ってない。こうして会話はするけれど、身体は彼を避けていた。なんとなく、移ったら嫌だ、と思っているからかもしれない。風邪ではないから移ることはないのだが、でも、チビが吐いているところなんて見たくない。
「チビは頭痛くねーんだろ」
「そうだけど」
 じゃあ薬を飲むのはオレ様だけでいい。タンジュンメーカイだ。コップを置き、椅子から立ち上がる。
「……覇王のとこ行ってくる」
「いないぞ」
 振り返れば、チビが泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「いない。チャンプはもう、いない」
「……んでそんなこと言うんだよ。いるかもしんねーだろ」
「オマエを見てるのが、辛いんだ」
 だったら見なきゃいーだろ。オレ様は叫んで走り出す。知らねー。チビなんか知らねー。オーバードーズなんか、知らねー。
 何もかも、どうでもいい。

 路地裏に、覇王はいなかった。心のどこかではわかっていた。足は桜の木に向かう。公園では子供たちが走り回っていた。見つからない影にしゃがみ込み、また、穴を掘りだした。
 いないでくれ。見つかりますように。いないでくれ。見つかりますように。
 胃が熱い。喉が熱い。頭が痛い。手が痛い。泣きたかった。泣けない。
 こんなことで、泣けやしない。
「オイ!」
 背後から声がした。振り返ると、やっぱり泣きそうなチビが立っていた。
「チャンプ、いたぞ……!」
 チビの手には、覇王が抱かれていた。オレ様はシャベルを放り出し、チビの元へ駆け寄る。
「アパートの近くにいた……たぶん、俺たちを追いかけて、そのまま迷子になってたんだ」
 覇王はきょとんとした顔でこちらを見上げた。何事もなかったかのように、甘えた声を出す。
「……今日はニボシ、ねえよ……」
 喉の下を撫でてやれば、ごろごろと低い音が響いた。手に雫が落ちる。視線を上にあげると、チビが泣いていた。
「オマエまでいなくなったら、どうしようかと……」
 何でチビが泣くんだよ。意味わかんねー。自然と込み上げる笑いに、チビも驚きながら笑った。
「あ」
「なんだ」
「桜、付いてる」
 チビの手がオレ様の髪に伸びる。久々に触れ合った。チビは花びらを一瞥して、そっと指を離した。花びらはちらちらと揺れながら地面へ落ちていく。

 オレ様は、穴にシャベルを埋めた。こんなもの、もう必要ない。足で乱暴に土を被せた。証拠は隠滅。完全なる隠蔽。チビが泣いた姿を知っているのは、オレ様だけでいい。
 吐き気はすっかり、おさまっていた。
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