漣タケ

 思ったより華奢な手首をしている、と思った。
 怠い腰を無理やり押し上げるように起きて、なんだまだ六時かと、と外の明るさに驚いた。昨日は八時くらいに帰ってきたはずなのに、微塵も持ち帰りの仕事が終わっていない。閉まりきっていなかったカーテンを思いっきり左右に開き日光を招き入れると、うう、とベッドから間抜けな声が聞こえた。
 レッカは涎を垂らして寝ていた。呑気なもんだ。隣に誰かがいる状態で寝るだなんて、昔の俺たちには考えられなかったのに、いつのまにこうなったやら。寝室から引きあげて、俺は朝のコーヒーを淹れる。
 コーヒーが飲めるようになったのも、ここ数年だった気がする。こんな泥水誰が好むんだと初めて飲んだ時は驚いたし、レッカも全く同じことを言っていたっけ。そうだ、アイツと組みだした頃だ。エンドーさんに一緒にコーヒーをご馳走になって、揃って苦い顔をしたんだ。
 ミルクと砂糖をたっぷり混ぜながら――ブラックも好きだが、セックスをした翌朝は甘くすると決めている、なにかの儀式のようだった――、新聞に目を通していると、めずらしくレッカが起きだした。今日も見事な寝ぐせだ。昨日、シャワーを浴びて早々に事に及んでしまって、ドライヤーをかけるひまがなかったのだ。
「おはよう」
「んあ」
 レッカは上裸で冷蔵庫の前に立ち、卵を三個取り出した。こんな狭いキッチンでよく料理する気になるな、と感心してしまう。ボウルにさっと卵を割り、塩を入れ、菜箸で乱雑にかき混ぜるその仕草に、ついつい見とれていた。ぼーっとしてんならトースト焼きやがれ、と言われて、あわてて食パンを棚から出す。
 食事なんて、ありつければいいと思っていた。泥でも啜って生きていこうとしていた時のくせだ。事実、俺もレッカも、幼い頃に泥を口にしたことがある。何かの拍子に、そんな会話を交わした。まずかったよな、と言って、死にたくなかったよな、と言って。
 じゅわ、とフライパンに油が熱され、換気扇がゴウゴウいった。黄色のまばゆい液体は均等に滑り、丸を作っていく。ああ、生きていくことの匂いだ。朝の匂い。レッカが俺の部屋に訪れた日の翌朝だけ、この匂いがする。
「げ、ケチャップもうねーじゃねえか」
「あ、忘れてた……」
 仕事のことなら忘れないのに、俺は生活用品についてとんと興味がなく、ついつい買い忘れてしまうことが多かった。泊るたびにレッカのメモが冷蔵庫にマグネットで止まっていく。歯磨き粉。風呂掃除用具。マスタード。そしてケチャップ。
「……俺、昔、ケチャップ嫌いじゃなかったか?」
「血に見えるんだったか? ハンバーガーは食う癖にな」
 今は全くそんな気は起こらないのに、そんな時代があった気がする。俺はレッカの分もカフェオレを作り、トーストにバターを塗って、食卓を整えた。完璧だ。完璧な午前七時。
「いただきます」
 二人で向かい合って食事を摂った。トーストはかりかりに焼けていて、バターのじゅわっとした塩気がうまかった。オムレツにはいつのまにかチーズが入っていて、芳ばしさに食欲が増す。
 さっきの続きの新聞を開き直しながら、そう言えば、とレッカの手首を見た。俺より白い、よく鍛えられた手の先。
「オマエの手首、案外華奢なんだな」
「……はぁ?」
「いや、細くはないけど。なんか、朝起きた時、顔の横にあって」
 レッカは怪訝な顔をしながらカフェオレを飲んでいた。そりゃそうだ。朝っぱらからいきなりそんなことを言われたって気味が悪いだろう。俺だってセックスの感想会なんかごめんだ。
「すまない、忘れてくれ」
「――カイは腰が細ぇ」
 オムレツの最後の一口を、まんまと食われてしまった。レッカはニヤリと笑いながら、フォークをくるくると弄んだ。
「お堅いワーカーホリックがこんな腰してるなんてな」
「なんだそれ。関係ないだろ」
「かわいい子猫ちゃんって意味だぜ、ハニー」
 死んでもダーリンなんて言ってやらない。俺はカフェオレを飲み干して、さっさとシンクに食器を運んだ。出勤までに片付けておかねば。今日もやることはみっちりあるのだ。帰ってくる頃にはくたくただ。
 ――くたくただと言うのに、コイツは今夜もまた、やってくるのだろうか。
 俺は朝に似つかわしくない溜息を盛大についた。バターもマスタードもケチャップも、俺の手には負えない。
「俺は早く出るから、合い鍵使ってくれ」
「へいへい」
 一緒に一晩過ごしたことを知られたくないからと言う理由で、俺たちは出勤時間をずらす。もはや当たり前の行為だった。そのために作られた合い鍵には何のストラップも付いていない。まあそんなものだよな、と歯ブラシを手に取って、ああ、歯磨き粉を買い忘れたんだった、と気付く。
「だっせーの」
 レッカは冷蔵庫に貼ってあった全てのメモを引きはがし、俺のカバンのなかに詰めた。「これで忘れねーな」とドヤ顔されたのを見ながら、俺は歯磨き粉をぎゅうぎゅう絞り出していた。
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