漣タケ

 大学生になった最初の夏休み、さて何をするかと思っていたところに、玲央先輩から「海行こうぜ、海」と誘われた。海なんて久しく行ってない、夏は毎年バスケの強化合宿があった程度で、レジャーというものにすっかり縁遠くなっている。
「つか今から行こうぜ」
「い、今から!? 水着とか何もないっすけど」
「いーだろべつに。すぐ乾くし」
 そういう問題じゃ……と思ったけれど、先輩は立ち上がって「それじゃあ行くぞ」と準備し始めてしまったから、俺は慌てて日焼け止めを探す。昔は美容用品だと思って敬遠していたけれど、今はもう塗らないと火傷レベルで焼けてしまう。近頃の太陽は異常だ。
 鎌倉くらいならすぐ行けるだろう、と湘南新宿ラインに飛び乗った。先輩、また少し背が伸びた気がする。俺も追いつきたいとは思うが、彼を越す未来はなかなか想像できなかった。
「虎斗、鼻の頭に汗かいてる」
「……うるさい」
 いたずらっ子のように笑う先輩の銀髪が、電車の窓から入る日差しにきらきらと輝いた。はじめて先輩を見つけた時のことを思い出した。校舎裏で、一人で練習していた、するどい眼光を持つ人。とんがったダイヤみたいだ、と思ったんだった。
「先輩、知ってます? かき氷って実は全部同じ味で、色が違うだけらしいっす」
「はぁ? マジかよ」
 じゃあ今度目隠しして食べ比べしようぜ、と笑われて、俺も釣られて笑った。何種類も食べたら、頭が痛くなりそうだ。
 湘南新宿ラインはそのまま逗子行きの横須賀線になつて、がたごとと鎌倉に到着した。こんなに遠くまで来たのも久しぶりだ。ましてや玲央先輩と。
「こういう、ちょっと遠いとこ来た時に限って知り合いに会ったりするんだよな」
「ありえますね。なんて言うんすか」
「べつに。フツーに後輩って」
「……っすね」
 なんとなく、淡い期待をもってしまったけれど、まあそこは現実的にいこう。俺たちは先輩と後輩であることに変わりはない。俺が肩を落としたのを見てか、先輩はハハッと大きく笑った。
「それとも恋人つった方がいいか?」
「〜〜ばかっ」
 ずんずん歩いてく先輩を見ると、周りの視線なんか気にしてる自分の方がバカみたいだ。俺は必死に大股で付いていく。身長の分、歩幅は違う。年齢の分、一歩が違う。隣に並んでいたいと思う。
 恋人として。
「バス乗るか」
 人のいないバス停でじりじりと肌を焼きながら、俺たちは海にまつわる豆知識であーでもないこーでもないと対抗した。オヤジという名前の魚がいることや、鮭は川で産まれて海で成長しまた川に戻っていくことなど、大半は魚のことだった。じっとりと汗が背中を伝う。
 暑さで頭がぼんやりとしてきて、玲央先輩のうなじを見ているうち、この人の汗と海とはどちらがしょっぱいんだろう、と思った。抱かれている時に上から落ちてくる汗は、不思議と嫌じゃない。腰に回した手が汗に塗れてぬるぬるになるのも、嫌じゃない。――俺は昼間っから何を考えているんだろう。
「虎斗のさ」
「……は、はい」
 ぼうっとしていた頭をしゃっきりさせるため頭を振り、先輩に視線を合わせる。先輩はこの暑さの中でも、目元は涼やかだった。
「虎斗の汗と、海って、どっちがしょっぱいんだろーな」
「……ほん、と、先輩って、バカっす」
「んだとコラ」
 まさか同じことを考えていただなんて。絶対に気づかれてはいけない。俺は先輩の足を踏んで――先輩に踏み返された、その会話を無理やり終わりにした。
 バスが来る。海に向かうバスが。ドアが開いた瞬間の涼しさに、先輩は「はー」と言った。俺たちは一番後ろの席に座った。
 海なんて行けなくてもいい。このままどこまでも先輩と行ってしまいたい。そう思いながら運転手の声を聞く。先輩にはなんでもお見通しのようだったようで、左手でそっと手を繋がれた。これで知り合いに会っても言い訳ができない。恋人です、と堂々と言ってやろう。先輩はどんな顔をするかな。いつか先輩の背を抜けるかな。
 バスが海の名を告げた。どこまでも青い、夏の匂いがした。
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