漣タケ

 そういえば、久しく入道雲を見ていない。
 昨日、四季さんと隼人さんが、「消えた日本語」という話題で盛り上がっていた。曰く、「午前中の涼しいうちに」と「夕立ち」という言葉らしかった。どちらも夏の季語だろうに、今の異常気象じゃ、言葉も溶けて消えていくのか。
「あちぃ」
「言ってると余計暑くなるぞ」
 蝉がジージー鳴いているなか、俺の住むワンルームは外気と冷気の狭間で揺らいでいた。いつもより低い温度にしているのに、じっとりと汗をかいてしまうのは何故だろう。陽炎で窓の外がうねって見える。フライパンを出したら、何もせずに目玉焼きが焼けてしまうんじゃないかと思った。味付けは塩コショウでいいかな、なんてことを考えながら、俺は読んでいた台本をぱたりと閉じた。今日は集中力が続かない。アイツの方に目線を投げると、がつがつとハンバーガーに食らいついていた。
 アイツは「涼みに」様々なところへ行く。円城寺さんの家、事務所、そして俺の家。今日は俺の家の気分だったらしい。それは良いが、あろうことか、アイツはマクドナルドを買ってきた。近頃は店頭でタッチパネルで注文が出来るから、アイツでも操作可能のようだ。律儀にカウンターで順番を待つアイツを想像するのはおかしいが、そんなことはどうだっていい。俺の家に来るのに、俺の分を買っていないというのはどういう了見だ。まあ、アイツがそこまで気を回せるわけがないけれど。
「あー、食った食った」
 アイツは腹を叩きながらその場でひっくり返る。無遠慮、って、こういうヤツのことを言うのだろう。油の匂いが充満して換気をしたくなるけれど、今窓を開けたら茹ってしまう。
「チビはなにイッショーケンメー見てんだよ」
「梶井基次郎の檸檬」
「れもんだァ?」
 スマホで青空文庫を呼んでいた。通っている演劇のワークショップで、次回練習する朗読の予習だった。紙の本と違って、画面は爪がコツコツと擦れる。この向こう側には行けないのだ、という、隔たりがあるように思う。
「オマエは稽古しないのか。一緒のレッスン受けてるのに」
「そんなモンしなくたってヨユーだろ」
「古い話をオマエが一発で読めるわけないだろ」
「なんだとコラ」
 俺だって目が滑るのに、アイツがさらさらと読めてたまるか。俺はスマホをアイツに差し出した。読めるのか、この文字の羅列を。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか」
「……」
 アイツは眉間に皺を寄せたまま押し黙ってしまった。な、言っただろ、一回で読めるわけないって。俺はそのままアイツにスマホを貸してやった。アイツのポケットにも同じ四角は入っているけれど、青空文庫に辿り着けるかはあやしかった。
 入道雲。入道雲が見たい。たっぷりと雨を含んだ、重たい、分厚い、夏の匂い。夕立ち、という言葉は消えて、全てがゲリラ豪雨と称されてしまうようになった今、あの雲たちはどこに行ってしまったのだろう。窓の外を見ても、からりと青空が広がっている。どこまでも行けそうだ、と思ったこともあるはずなのに、ここで行き止まりな気がする青さだった。
 アイツの飲み干したコーラのカップから炭酸の香りがして、レモンが食べたい、と思った。飴じゃない、ジュースじゃない、酸っぱい、丸のままの。涎がじゅわっと湧き出てきた。身体がぴりぴりと震え、刺激を求めている。このままここに居たって、気持ちが迷子になるだけだ。どうせなら梶井基次郎の気持ちにでもなろう。俺は意を決して、外に出る用意をした。
「なあ。俺、レモン買いにスーパー行ってくるから、鍵――」
「オレ様も行く」
「え」
 思わず聞き返してしまった。この暑さの中、アイツが付いてくるだなんて信じられなかった。俺にスマホを返しながら、アイツはじっと俺の目を見つめた。透き通った黄金色の瞳が、俺の首筋に纏わりつく。
「どこまで読んだ」
「……わけわかんねー」
「レモンが出てくるんだよ。鬱々としていた気分が晴れるんだ」
「何でだよ」
「確かめに行こうぜ」
 俺たちは揃って靴を履き、沸騰しそうな世の中へそろそろと足を踏み入れた。一瞬で汗が噴き出てくる。はやく、はやくレモンにありつきたい。俺が鍵を閉めたところで、アイツは俺の顎を掬った。
「――な、んで」
「べつに」
 レモン味のキスとかいうけれど、まだ、買ってすらいないのに。アイツの唇からはコーラの香りがして、俺は何も言えなくなってしまった。こんな真夏の真昼間に、突然キスをされてしまって、自分がどこにいるのかわからなくなったのだ。
「行くぞ」
 入道雲は、ここからじゃ見えない。アイツは俺の手を引いて、スーパーへの道を急いだ。
 じんわりと湿った手には、鬱屈という字は程遠かった。
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