漣タケ
あーあ、と思った。どうしよう、という考えは、しばらく思い浮かばなかった。
シャツに口紅がべっとり付いているなあ、というのは、匂いでわかっていた。朝に寝て昼に起きる生活をしていると、頭がぐらぐらしてくる。どの女の家に泊まったのかも覚えていない。化粧水が乱雑に並べられているユニットバスのトイレに立つと、オレの首筋にくっきりとキスマークが付いていた。
あーあ、というのは、他の女にとやかく言われるのがめんどくさいなあという感情から。どうしようというのは、タツミにとやかく言われるのがめんどくさいなあという感情から。小便を済ませ、寝室に転がっていた消臭剤を全身に吹きかけた。歯磨きがしたい。どの歯ブラシが自分のかわからない。何人男連れ込んでるんだコイツ。
カーテンは閉めたまま、泊まっていた女の家を出た。先に家を出ていた家主からの、「鍵はポストへ」という書置きに大人しく従った。どうせ夜には店に来るのだ。なにか一言添える必要もない。
薬局に寄って、コンシーラーを買った。以前も購入した記憶があるが、どこかの女の家に置いてきてしまったので手元にない。自分の欠片が色んな箇所に散らばっているみたいで気持ちが悪い。
日光が肌を焼く。日傘というのは面倒くさくて持ったことがない、生活時間は夜なのだから必要ない、何度もこの話題を口にしてきたが、聞いた者は皆「絶対持った方がいい」と言った。店のボーイしかり、客の姫しかり。唯一同意してきたのはタツミだけだった。
「だって俺の家に置いてくから意味ないし」とのことだったので、オレの言いたいこととズレてはいたが、その通りだったので訂正はしなかった。今だって、足はタツミの家に向かっている。
「なんでアンタはこの時間に来るかな」
タツミの家に着くと、彼はまさに今起きたと言わんばかりに髪を爆発させていた。気にせず家に上がり、くしゃくしゃになった服を脱ぎゴミ箱に捨てる。
「うーわ、勿体ない。それグッチですよね」
「もう着らんねーし。どうせまた貰うし」
「貢ぎ癖ならぬ貢がれ癖か」
タツミはやれやれと溜息をついて、「なんか朝メシあったかな」と冷蔵庫を漁っていた。オレは昨夜の酒が残っており、とてもじゃないが食う気になれない。オレのはいーから、と伝えて、洗面所に向かう。ここの家にあるオレの歯ブラシの位置は知っている。つい三日前にも使ったばかりだ。
「コーヒーは?」
「水でいい」
上裸のまま歯を磨いていると、キスマークが首筋だけに留まらず、胸元にまで広がっていることに気付いた。あー、コンシーラー使わねえと。溜息をついて、うがいをする。
「レイジ……うわ、なんだソレ」
「あー」
タツミに見つかった。まあどうせ見つかる運命だったのだけど、ずっしりと重い空気が漂う。なんだよ、オマエだって枕することくらいあるだろ。ここは開き直るしかない。
「見えるところはマズイって言ってるでしょ」
「好きでつけさせてんじゃねーよ」
タツミの手には、Tシャツが抱えられていた。ほら、と手渡されたものをそのまますっぽりと被り、タツミの匂いに包まれる。まだヨレていない。数度しか着ていないのだろう。サイズもなんならオレのほうがピッタリだというくらい大きかった。この家にはオレのためのものが何でもある。
「コンシーラー、買ってきたんだよ」
「それ色あってます? テスターした?」
「カッスカスだった」
はあ、と頭を振るタツミをどかし、台所で水を飲んだ。このグラス、バカラじゃねえの? 自分だって貢がれてるくせに。
ドライヤーの音がしばらく続き、タツミが髪型に奮闘しているのが窺えた。そんなもの出勤前にすればいいだろうと言っても、「癖毛をバカにするな」と怒られてしまって終わりだから言わない。タツミのおすすめのワックスはオレにはキツかった。
「ねえ」
「んだよ」
「それ、上書きしていいすか」
指をさされたのは、オレの首筋。言うと思った。オレに負けず劣らず、支配欲の強ぇヤツだ。それをかっこつけて言うためだけに、髪型をセットしたのか? くすりと笑みが零れ、オレは姫にやるように両手を広げた。
「来いよ。出勤までにヘバっても知らねえぞ」
「そっちこそ」
せっかく着たTシャツを脱ぎ、オレとタツミは布団に転がる。偽りの香水じゃない、本物の匂い。カーテンの隙間から漏れ出る光でも、充分眩しかった。
日光はオレたちの逢瀬を知らない。夜が始まるまで、オレたちはのびのびと獣になった。
その夜、用意していたコンシーラーはやっぱり色味が肌に合っておらず、オーナーにしこたま叱られたのだった。
シャツに口紅がべっとり付いているなあ、というのは、匂いでわかっていた。朝に寝て昼に起きる生活をしていると、頭がぐらぐらしてくる。どの女の家に泊まったのかも覚えていない。化粧水が乱雑に並べられているユニットバスのトイレに立つと、オレの首筋にくっきりとキスマークが付いていた。
あーあ、というのは、他の女にとやかく言われるのがめんどくさいなあという感情から。どうしようというのは、タツミにとやかく言われるのがめんどくさいなあという感情から。小便を済ませ、寝室に転がっていた消臭剤を全身に吹きかけた。歯磨きがしたい。どの歯ブラシが自分のかわからない。何人男連れ込んでるんだコイツ。
カーテンは閉めたまま、泊まっていた女の家を出た。先に家を出ていた家主からの、「鍵はポストへ」という書置きに大人しく従った。どうせ夜には店に来るのだ。なにか一言添える必要もない。
薬局に寄って、コンシーラーを買った。以前も購入した記憶があるが、どこかの女の家に置いてきてしまったので手元にない。自分の欠片が色んな箇所に散らばっているみたいで気持ちが悪い。
日光が肌を焼く。日傘というのは面倒くさくて持ったことがない、生活時間は夜なのだから必要ない、何度もこの話題を口にしてきたが、聞いた者は皆「絶対持った方がいい」と言った。店のボーイしかり、客の姫しかり。唯一同意してきたのはタツミだけだった。
「だって俺の家に置いてくから意味ないし」とのことだったので、オレの言いたいこととズレてはいたが、その通りだったので訂正はしなかった。今だって、足はタツミの家に向かっている。
「なんでアンタはこの時間に来るかな」
タツミの家に着くと、彼はまさに今起きたと言わんばかりに髪を爆発させていた。気にせず家に上がり、くしゃくしゃになった服を脱ぎゴミ箱に捨てる。
「うーわ、勿体ない。それグッチですよね」
「もう着らんねーし。どうせまた貰うし」
「貢ぎ癖ならぬ貢がれ癖か」
タツミはやれやれと溜息をついて、「なんか朝メシあったかな」と冷蔵庫を漁っていた。オレは昨夜の酒が残っており、とてもじゃないが食う気になれない。オレのはいーから、と伝えて、洗面所に向かう。ここの家にあるオレの歯ブラシの位置は知っている。つい三日前にも使ったばかりだ。
「コーヒーは?」
「水でいい」
上裸のまま歯を磨いていると、キスマークが首筋だけに留まらず、胸元にまで広がっていることに気付いた。あー、コンシーラー使わねえと。溜息をついて、うがいをする。
「レイジ……うわ、なんだソレ」
「あー」
タツミに見つかった。まあどうせ見つかる運命だったのだけど、ずっしりと重い空気が漂う。なんだよ、オマエだって枕することくらいあるだろ。ここは開き直るしかない。
「見えるところはマズイって言ってるでしょ」
「好きでつけさせてんじゃねーよ」
タツミの手には、Tシャツが抱えられていた。ほら、と手渡されたものをそのまますっぽりと被り、タツミの匂いに包まれる。まだヨレていない。数度しか着ていないのだろう。サイズもなんならオレのほうがピッタリだというくらい大きかった。この家にはオレのためのものが何でもある。
「コンシーラー、買ってきたんだよ」
「それ色あってます? テスターした?」
「カッスカスだった」
はあ、と頭を振るタツミをどかし、台所で水を飲んだ。このグラス、バカラじゃねえの? 自分だって貢がれてるくせに。
ドライヤーの音がしばらく続き、タツミが髪型に奮闘しているのが窺えた。そんなもの出勤前にすればいいだろうと言っても、「癖毛をバカにするな」と怒られてしまって終わりだから言わない。タツミのおすすめのワックスはオレにはキツかった。
「ねえ」
「んだよ」
「それ、上書きしていいすか」
指をさされたのは、オレの首筋。言うと思った。オレに負けず劣らず、支配欲の強ぇヤツだ。それをかっこつけて言うためだけに、髪型をセットしたのか? くすりと笑みが零れ、オレは姫にやるように両手を広げた。
「来いよ。出勤までにヘバっても知らねえぞ」
「そっちこそ」
せっかく着たTシャツを脱ぎ、オレとタツミは布団に転がる。偽りの香水じゃない、本物の匂い。カーテンの隙間から漏れ出る光でも、充分眩しかった。
日光はオレたちの逢瀬を知らない。夜が始まるまで、オレたちはのびのびと獣になった。
その夜、用意していたコンシーラーはやっぱり色味が肌に合っておらず、オーナーにしこたま叱られたのだった。