漣タケ

 海を初めて見た時のことを覚えていない。
 いつからか海というものは当たり前に地球を侵食しているものだという認識はあったし、この星が青いということも知っている。でも、そういった知識のきっかけを思い出せない。なんだったか。夕陽が燃えよるようで、海のくせに赤いじゃないか、と思った記憶がある。焼き尽くされる水平線の向こうに太陽が沈むと、辺りが途端に真っ暗になった。それが妙に切なかった。
 らーめん屋かチビの家に勝手に寝泊まりをして、朝になったら適当に出て行く、を繰り返していた。それに慣れきった二人は、今じゃ何も言わずに寝床を与えてくる。夕飯も勝手に出てくる。なんとも力の抜ける。コイツらは泥など食ったことはないのだろう。草むらの夜露の冷たさを知らないのだろう。こんな話はわざわざしないから、オレ様がそれらを知っていることもコイツらは知らない。
 海が見たい、と思って起きたのだった。大きなあくびをひとつして、玄関に向かおうと立ち上がった時、「どこに行くんだ」とチビに手を掴まれた。そうだ、今日はチビの家に泊まっていた。
「どこに」
「オレ様の勝手だろ」
「ここは俺の家だ」
「関係ねー」
「……ついていって、いいか」
 どういう風の吹き回しだ。いつもなら放っておくくせに、こんな時ばかり。
「ついて行くからな」
「勝手にしろ」
 チビが身支度をしているのをぼうっと見ていた。こうしている間にも潮は満ちたり引いたりしている。ああ、そういえば昨日の夕飯は魚だった。潮風が恋しいのはそのせいだろうか。
「待たせたな。……ほら、これ」
 チビが無理やりオレ様に帽子をかぶせる。変装したところでオレ様はオレ様のままなのだから、意味などないと思う。
 海までの行き方は覚えていた。以前、四季に麗と共に連れて行かれたことがある。あの時は写真だけ撮って終わりだったから(写真を撮りたかっただけらしい。迷惑なヤツだ)、今日は深呼吸が出来るといい。見覚えのある駅をのりついで、ときたまあくびをしながら、オレ様たちは無言で海へ向かった。
 目的の駅に着き歩き出しても、チビは行き先を尋ねなかった。無言で後ろについてくる。ガキだったオレ様もこうだったのだろうか。親父の後を、ただ黙ってついていった。足が棒になっても、文句は許してもらえなかった。
「……なんでだ」
「あぁ?」
 海に到着した途端に、チビが口を開く。なんでと言われたって、行きたいと思ったからにすぎない。疑問の意味がわからなくて、つい苛立った声が出た。チビはそれでも問いを変えなかった。
「なんで、海に来たんだ」
「別に……どーでもいいだろ」
「朝に」
 ブワッと大きな風が吹いた。チビもオレ様も帽子を押さえた。辺りには誰もいないのに、何かから隠れるように。
「オマエが、海に帰っていく夢を見た」
「……帰る」
「そのまま、帰って来ないんじゃないかって思った」
 帽子から手を離さないチビが、どんな顔をしていたかわからない。オレ様に家などない。海の中にすら。そんなこと、オマエが一番知っているじゃないか。むしゃくしゃして帽子を脱いだ。髪が潮風に踊った。
「チビはどーすんだよ。オレ様がこのまま海に行っちまったら」
「……どうするんだろうな。わからない」
 波の音が足元まで迫る。太陽が街中にいる時より痛い気がした。水平線は彼方向こうで静かだ。
「ただ見ていることしかできないのか、追いかけて俺も海に入るのか、わからない。海に入っても、息ができるのかわからない」
「……だからなんだっつうんだ」
「ここでオマエがいなくなったら、俺、一生海に来られなくなりそうだ」
 何でだよ、と聞こうとしてやめた。なんとなく、聞かない方がいい気がした。チビは帽子を脱がなかった。それでもその下の蒼い目で、海をじっと見つめていた。
「……次からさ」
「……なんだ」
「オマエが家に来た時、おかえりって言うようにする」
「……なんで」
「なんとなくだ」
 俺の家なんだから文句ないだろ、と小さく呟いたチビは相変わらず海を見ていて、オレ様はまた「勝手にしろ」としか言えなかった。勝手にしろ。気が向いた時に、ただいまと言ってやらないこともない。
 そのまましばらく波を見たのち、オレ様が歩き出したのを追って、チビは静かについてきた。「次」があるのなら、今度は夕焼けを見に来ようと思った。
 世界が焼けて行く様を、チビに見せつけたいと思った。
20/69ページ
スキ