漣タケ

 雨上がりの匂いに包まれながら、なんとなく公園へ立ち寄った。朝のランニングは一通り終わったし、息切れも汗まみれだ。隣で走っていたアイツも大人しく俺についてきて、がぶがぶと水を飲んでいる。
 木々の濡れた匂い。土の匂い。これが六月の匂いだと思う。厚い雲の隙間からさす光が眩しい。
「……息がしづらい」
「籠るよな、なんか、水分が」
 肺のなかが湿ってるような心地になる。もうすぐ梅雨だ。陸地で溺れそうになるこの時期が、昔は嫌いだった。リストバンドが汗でじめじめする。
「……チビ」
「……ああ」
 ひと雨きそうだ、と伝えたいのだろう。声色で悟り、頷いた。雨の匂いが濃くなった。
 この匂いを嗅ぎ分けられない人が世の中にはいるらしい、ということを最近知った。当たり前のことだと思っていたのに、雨が降りそう、と言うと驚かれたりする。アイツも嗅ぎ分けられるタイプだから、俺たちはよっぽどのゲリラ豪雨でなければ雨を避けられることが多い。
 帰りはなんとなく、並んで歩いた。このまま降られても構わない気分だったし、それに二人とも、纏わりつく湿度に身体が重くなっていたのだ。空になったペットボトルを自動販売機横のゴミ箱に捨てる。早朝だからか、ゴミ箱の中はからっぽのようで、がこんという空虚な音が響いた。
「水浴びてえ」
「風邪引くだろ、ちゃんとお湯で流せ」
 気持ちはわかる。真夏も、今すぐ水を浴びたいと思って風呂に入るのに、お湯が気持ち良いと感じるのは何故なんだろう。最後に水を浴びて締める時の快感も例えようがない気持ち良さだが、まずは汗で冷えた身体をあたためるべきだ。
 ぽつ、と肌に雨粒が落ちる。六月の温度だ、と思う。なんとなく隣を見たら、アイツは額に落ちた雨粒をリストバンドで拭っていた。走り出さないところを見るに、このまま歩いていていいんだろう。スニーカーの中が蒸れてくたくただ。
 朝の電灯って、どこか寂しい。こういう人造的なものを、どこの誰が造ったのだろう、と考えてしまうことがある。いつ建てられたもので、どんな会議があったのだろう。工事中の会話は? 完成したときって、打ち上げとかするんだろうか。
「チビ」
「なんだ」
「チビって、帰り道、よくヨソミしてるよな」
「……そう、かもな」
「何考えてんだよ」
 オマエには関係ないだろ、と、いつもなら言うだろう。だけど今日は、街があまりにも静かすぎて、会話の心地が良くて。雨だか汗だかわからない水滴を拭いながら、うーん、と考えを巡らす。
「この電柱とかさ。誰がつくったんだろうって」
「……はぁ?」
 そんなこと考えてんのかよ、と呆れたため息を吐かれたが、聞かれたから答えたまでだ。電柱一本建てるのだって、きっと途方もない作業なんだから、思いを馳せるくらいしたっていいだろ。電線から雨粒が落ちてくる。
「……オレ様のことだけ考えてりゃいーのに」
「……それとこれとは、別だろ」
 四六時中、コイツのことを考えてたら、脳みそが破裂しちまう。ただでさえうるさい存在なのに――そして、言うまでもなく、自分の生活にこんなにも侵食してくるとは思わなかった存在なのに。努めて冷静に、静観を、なんなら無視をしようとしているのに。
「……俺が見てたいのは、前だけだ」
「……知ってる」
 なのに、オマエが俺ばかり見てくるから。その視線にあてられて、つい目線を逸らしてしまって、そしてそこに電柱があるなら。早朝で静かで、雨粒が垂れてて、六月の匂いがしたら。
「……このまま、どこかに行きたくなる」
「どこに」
「どこでも」
 雨粒が肌に落ちる頻度が高まってきた。噎せ返りそうな湿度の中、何だか泣きたくなった。この気持ちに名前をつけたことはない。たまに勝手にやってきて、しばらくすると行ってしまう、刹那的な感情だ。
「行くか、どっか」
「……どこに」
「どこでも」
 ぐい、と腕を引っ張られ、身体が前につんのめる。俺の腕も、掴んできたアイツの手のひらも湿っていた。雲の合間の日差しは相変わらず眩しくて、電灯は頼りない。六月の色も重さも、湿度も気温も、もしかしたらコイツの前では無力なのかもしれない。
「くたばんなよチビ、こんなとこで」
「……くたばってなんかない」
 アイツの走り出す方向へ、身体が引き寄せられる。雨粒がまぶたに落ちてきて視界が滲んだけれど、ただ世界がきらめいただけだった。
 そうだな、俺たちならどこへでも行けるな。俺はいつのまにか走る速度を上げていて、アイツの隣に並んだ。
「やっと笑ったな、チビ」
「……そういうオマエもな」
 口角を上げた俺たちの行く先は、雨粒も知らない。生ぬるい風が、俺たちの背中を押していた。
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