漣タケ

 あ、麻婆豆腐にしよう、と思ったのは、アイツがばたんと家を出て行った瞬間のことだった。
 昨日どしゃぶりだったから、靴を乾かしていたのだ。玄関先に新聞紙を敷いて、靴の中にも丸めて入れて。なのにアイツはよく見もせず、その上に自分の濡れた靴を置きやがった。おかげで俺の靴はびしょぬれのままだ。新聞紙も意味を成さない。
 そのことについて苦言を呈したら案の定逆切れされて、日々の恨みつらみをついでにぶつけ――鍋の蓋も洗え、風呂に入ったら換気扇をつけろ、エトセトラ、エトセトラ――言い争いになり、アイツが出て行ったという流れだ。別に心配はしていない。夕飯の時間になったら何食わぬ顔で帰ってくることを知っている。
 こうなったら、思いっきり辛いモノを食べてやろう。アイツも眉を顰めるくらいのヤツ。唐辛子とか、香辛料をたくさん入れて――そうと決まれば、買い物だ。俺は濡れていない靴を出してから、アイツがびしょぬれのままの靴で出て行ったことに気付く。まあ、外を歩いていれば乾くだろうが、少し気の毒かもしれない。アイツは気にせずズカズカ歩いてるだろうけど。
 スーパーに行く前に、靴屋の店頭で売っていた靴下を買った。濡れたアイツの足先のためだったが、いらないと言われたら自分で履くまでだ。アイツは我が家ではいつもはだしだ。真冬でもはだしだから、見ているこっちが寒くなる。
 スーパーで、麻婆豆腐の素と豆腐、ネットで検索して出てきた香辛料をぽいぽいとカゴに放り込む。日常を淡々と送っていると、少しずつ冷静になっていく。鍋の蓋は俺が洗えばいいし、換気扇は辛抱強く言い続けていけばいい、何も今日怒鳴ることなかった。大人げない、って、俺みたいな子供が使っていいのだろか。それとも、大人げないを集めていったら、いつか大人になれるだろうか。会計を済まし、外に出る。水色が橙色を纏い始めていて、随分陽が長くなったなあと思う。
 アイツについて怒っているはずなのに、気が付けばアイツのことを考えている。家に行くまでの道でアイツの面影を探したり、一人暮らしだった頃に玄関先で震えながら俺を待っていた姿を思い出したり。ドアノブを回して部屋の中が真っ暗でも、ついただいまを言ってしまう。ごはんを炊いて、風呂に入って。アイツの帰ってくる音を聞き取ろうと耳を澄ましている。二人で暮らすようになってから、日常の中にアイツの音が増えた。それが当たり前になっていることの嬉しさと不思議さを噛みしめて、なんとも言えない気持ちになった。一人でいることは苦痛じゃない、なんなら好きだ。だけど今じゃこれだ。人生どうなるかわからない。
 風呂から上がって、麻婆豆腐を作り出す。台所中真っ赤な匂いだ。くらくらと鍋で煮詰めていると、鼻が刺激されて涙目になる。台所の孤独は儚い。包丁を洗う水が冷たい。
 ドアノブがガチャ、と回ったのを聞いて、慌てて目を擦った。アイツは鍵を取り出すより、俺が開けるのを何故か待つ。一人暮らしだった頃の名残かもしれない。ドアが開いた先、ぶすくれた顔のアイツが立っていた。
「ん」
「……え、なんだ」
「肉」
「に、肉?」
 俺に袋を押し付けて、アイツは風呂場に消えて行ってしまった。おかえりもただいまも言う間がなかった、呆然と立ち尽くしていても仕方ない、俺は袋をがさりと開ける。
 中にはコンビニの辛味チキンがふたつ入っていた。包み紙が油でしっとりしている。あはは、アイツも俺と同じこと考えてた。こういう時は辛いモノに限る。思いっきり汗をかいて、火を噴いて、それでいいじゃないか、という目論み。
 花を買ってこなかったあたりアイツらしい。俺は麻婆豆腐と辛味チキンの皿を用意し、エプロンを取った。
 換気扇のごうごうと、シャワーのざあざあがまざって響く。アイツとの暮らしは賑やかだ。
 明日になったら、乾いた靴で一緒に出掛けよう。脱衣場で「タオル」と叫ぶアイツに「取ってくださいだろ」と小言を言う俺の口角は上がっていた。この後かく真っ赤な汗を思ったら、なんだかおかしくなってしまったのだった。
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