漣タケ

 子供の頃に読んだおとぎばなしに出てくる「ぶどう酒」は、あんなにおいしそうだったのに。
 大人になって初めて飲んだワインに顔をしかめる。てっきり濃厚なジュースみたいな味がすると思ったのに、渋くて、苦くて、まずかった。少ししょっぱいような、飲み込みにくい味。
「あはは、これはボディが重いからね」
 俺にワインを勧めた番組プロデューサーはおかしそうに笑い、俺からグラスを受け取って残りをすいすいと飲み干していく。
「ドイツのアイスワインとかなら飲みやすかったかな」
「いえ、もう……結構です」
 大人になったら、自然と酒が飲めるようになると思っていたのだ。身体が環境に適合していくように、胃とか食道も細胞が変化したりして。ビールが苦いという知識はあったけれど、まさかワインもこんなに重苦しい味だとは。匂いだけで脳が揺れそうだ。
 グラスの中のこっくりと深い紫色は、番組プロデューサーの手によってくるくると回り、ほんのり赤みを透けさせている。ああ、見た目はあんなに美味しそうなのに。
「肉料理とのマリアージュを楽しむものだから。飲めなくても、肉がおいしけりゃいいさ。まだ二十歳になりたてなんだから」
「……でも、飲めたら大人の仲間入りが出来るかと思ったんです」
「その気持ちはわかるよ。まあ、慣れもあるだろうし」
 今日は記念すべき一口めってことで、と、改めて乾杯をした。俺はジンジャーエールをカランと振って、ぱちぱちと弾ける泡を恨みがましい思いで見る。ノンアルコールで乾杯って、まだまだ子供だと言われてるみたいで。
「牙崎くんはお酒強いのかな? 全然酔ってるように見えないね」
 振り向くと、ハイネケンの瓶を片手に共演者と談笑しているアイツが見えた。時折ぐびっと瓶を煽り、喉を鳴らしている。めずらしい。アイツは酔うとすぐ赤くなって顔に出るのに。
「おい、あんまり飲みすぎるなよ」
 飲むペースが早いように見えて、俺はつい口を出しに行ってしまった。俺なんかに言われなくたって、コイツは俺より一年早く酒を知ってるんだから、百も承知だろうに、いらぬお節介だったか。
「ねえ、大河くんはお酒のめないのぉ?」
 横にいた、アイツとの絡みの多い役だった女優が、綺麗にリップスティックを塗った唇でそう言った。仄暗い店内の中でも分かるくらいその人の頬は上気していて、ほどよく酔いが回っているようだった。店内のジャズが陽気なメロディへと転調していく。
「はい、まだ慣れなくて、あんまり……」
「えー、かわいい」
 するり、と白い腕が肩に伸びてきて、思わず身をこわばらせてしまう。ローズの香水の匂いが胸元からたちこめた。茶色のセミロングがくるくると、彼女の色香を振りまいている。
「ねえ、これ飲んでみてくれない? オレンジブロッサム、飽きちゃって」
 オレンジジュースにそっくりの液体が、目の前に差し出される。くわん、とアルコールの匂いがするから、カクテルなのだろう。ジュースを使っているのなら俺も飲めるかと思ってグラスを受け取ろうとした瞬間、彼女の細長い指が俺の人差し指に絡みついてきた。ブラウンのネイルがてらてらと光る。
「ね、大河くんって酔ったらどうなるのかな。このあと二軒目もいかない?」
 手の中のグラスが、思ったより重くて。ローズの香りに顔を顰めそうになりながら返事に詰まっていると、俺に絡みつく指を、アイツの指が払いのけた。
 アイツはぱっと俺からグラスを奪い、あっというまにオレンジブロッサムを飲み干すと、少しうるんだ蜂蜜色の瞳でぎろりと彼女を睨み、空になったグラスを突き返した。
 「チビの酔ってるとこなんか見せねえし、二軒目も行かねえ!」
 ぱちくりと豊かなまつ毛を瞬かせて固まる彼女を置き去りに、アイツは俺の腕を掴んで強引に席を離れた。ハイネケンの瓶も、いつのまにか空になってカウンターの上だ。
「こんなとこで酔ってんじゃねえよ、ばーか!」
「いや、俺、飲んでないし……! 酔ってるのはオマエだろ!」
「うるせえ! 酔ってねえ!」
 一気飲みをしたのだ、さすがに顔が赤らんでいる。何をそんなに躍起になっているのか分からないが、助かったのは事実だ。俺がお礼を言うタイミングを見計らっている間に、アイツは番組プロデューサーのところまで俺を引きずっていき、
「オレ様たち帰るからなぁ!」
 と吠えた。俺は驚いたままあわててお疲れ様でしたと頭を下げ、オマエも頭を下げろと怒鳴りたいのに強引な腕がそれをさせてくれない。オレンジブロッサムが何のカクテルだったのか、結局俺は知らない。
 乱暴に連れ出された月夜の下で、アイツと無言で並んで歩いた。火照った身体に夜風が気持ちいい。今夜は満月だろうか。雲のない夜空は澄んでいて、あのワインの紫色を思い出した。青いワインも、探したらこの世にあるのかもしれない。それはどんな味がするだろうか。俺の知らないジュースの味がしそうだと思った。
「なあ、何怒ってるんだ」
「怒ってねーし。チビに隙があんのが悪いんだろ」
「隙……? 俺、何もしてないだろ」
 少し呂律の回っていない彼の中で、いったいどんな感情が動いたのかはわからない。俺も酒を飲んで、腹を割って話すことができればいいのだけど。いや、俺が酒を飲むことを嫌がっているのか。じゃあオマエが酒を飲んでいい理由ってなんだ。
「……オマエだけ、ずるい」
「ああ?」
「俺も飲みたかった」
「チビはいーんだよ」
 ふっと、目の前にアイツの顔があった。銀色のまつ毛、金色の瞳。アルコールの香りの唇が唇を離れる時、オレンジジュースの向こう側、ひどく苦い味がした。
「チビにはこれでジューブン」
 赤ずきんがオオカミの言う事を信じてしまうのって、こんな気分だったんだろうか。俺はしばらく口がきけないまま、アイツの後ろを黙って歩いた。
 アイツの耳が赤いのは酒のせいか、それとも。
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