漣タケ

 平日の十四時のカフェなんて、人気のないものだ。タケルとの待ち合わせまで、時間つぶしに入っただけの漣にとって、それは都合のいいことだった。どこかの日陰でやり過ごすには暑すぎる日だった。
 心地いい雑音と、ゆったり氷の融けていくアイスティー。机の上に溜まっていく水滴を尻目に、背中の違和感が増す。漣は何度も姿勢を変えながら、じんわりと広がる痛みに眉根を顰めた。普段ならしまっているはずの羽が、窮屈そうに頭を出す。
 自身が天使であることは、タケルには隠していなかった。満月の夜にしか姿は変わらないし、日常生活に支障はない。ただ、こうして時々、背中が痛むのだ。早く人間の殻から解放されたいというように。
 人間でありつづけることを選んだのは漣自身だった。天使の母親と人間の父親の間に生まれ、父と共に暮らすことになったその時に、その運命は決められた。強い存在であることを望まれながら、人知の及ばない力が身体を襲う時、自分の存在意義がわからなくなる。漣にとって、満月とは煩わしいものだった。一種の呪いに、血を恨む。顔も知らない母親は、どうして父となど交わったのだろう。堕天する気もなかったくせに。
「おまたせ」
 タケルが息を弾ませながら向かいに立った。滴る汗はグラスのそれより多く、冷たい飲み物が必要なのは自分ではなくタケルだろうと感じた。
「……痛むか」
「あ?」
「明日、満月だから」
「ああ」
 明日か、と漣は溜息を吐く。そこにいつもの勝気な笑みはない。タケルは漣の残りのアイスティーを貰いながら、窓枠に切り取られた空を見上げた。
「……晴れだから、余計に、かもな」
 雲一つない晴天の下を、二人並んで歩く。漣はいつもより言葉数が少なく、それは暑さのせいだけではない。タケルは何と声をかけていいものか悩みながら、漣に歩幅を合わせた。漣の方がタケルより背が高い分、歩幅も大きかった。
「……地面からの照り返しがきついのって、犬や猫も同じなんだと。だから散歩とか気を付けなきゃいけないって」
「フーン」
「……天使も、空を飛んでたら、暑いのかな」
「そーじゃねーの?」
 知らねーけど、ざまあねーな、そんなことを呟きながら、漣は道端の雑草に目をやった。涼し気なのは植物だけだ。青々と背を伸ばし日光を待ち望むその姿に、心がむしゃくしゃする。
 こんなに太陽が照り付けていたら、日焼け止めの意味がないかもしれない。タケルは自分の腕を見下ろした。小さな、蚊に刺された跡が黒ずんでいる。こうした僅かな傷跡を残していくことが、大人になっていくってことなんだろう。唾液をわざと強く飲み込んだ。
 漣も、タケルも無口だった。明日の満月をただ待つだけの、天使と人間。道路に落ちる影の濃さは同じなのに。
「なあ」
「なんだよ」
「……なんでもない」
 アイスでも買い食いしようかと言うために振り返ったタケルの目に、立ち尽くす漣の姿が映る。
「ど、どうした」
「……天に還るなんてこと、ぜってーしねえから」
 凛とした、有無を言わさない声だった。タケルは、自分がさっき何て言おうとしたのかを当てられたことへの驚きと、心を見透かされたことの恥ずかしさと、漣の佇まいの異様さに、言葉を失う。
「……あつい」
 漣はそう呟き、タケルを追い越した。タケルは動けなかった。漣の背中が窮屈そうにしているのが目に入ったからではない。漣の香りに、太陽の下で嗅ぐ月光の香りに、酷く泣きそうになってしまったからだった。
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