漣タケ

 大家さんに、はい、と手渡されたその小瓶には、小さなオレンジ色の花が浮かんでいた。
「金木犀のジャムなの」
「手作りですか。すごいですね」
「趣味なのよ、ジャムづくりが。イチゴでしょ、マーマレード、りんご、金柑なんかも」
 にこにこと笑うその目尻の皺に、日々の暮らしの楽しさが刻まれていた。回覧板と一緒に小瓶を受け取った俺は両手が塞がっていて、不格好なお辞儀しか出来なかった。
「それじゃあ、ハンコを押したらお隣に回してね」
「ありがとうございます」
 朝のロードワーク帰りに、集合ポストの前で偶然会うにはタイミングが良すぎた。俺は大家さんの背中を見送りながら、さては俺の音で朝起こしてるな、と察する。もっと静かにドアを開けるようにしよう、この家は古いから音が筒抜けだ――
「オイチビ!」
 ――言ってる傍から、やかましい台風の声。俺は嫌な汗をかきながら振り返る。アイツはおおきなあくびをしながら、まるでそれが当り前かのように俺の部屋の入口を陣取った。
「朝飯」
「……こんな時間からわざわざ来るなよ」
 全く、どこで寝ていたんだか。今朝は俺に挑みに現れなかったと思ったのに、静かな朝は瞬く間に去っていく。
「ソレ、何だよ」
「金木犀のジャムだと。大家さんの手作りらしい」
「決まりな」
 うきうきと顔を綻ばせるアイツを見て、まったく仕方のない、と溜息を零す。鍵を開け、ドアノブを回し、アイツを部屋に押し込むと、さっそく台所へと向かった。
「手洗え」
「チビもだろ」
 競って手を洗い、どちらともなく食パンとマーガリンを用意した。トーストを二枚焼く。ただそれだけのことなのに、何だか随分待ち遠しかった。
「タマゴあんじゃねーか」
「勝手に冷蔵庫漁るな」
 今更言っても無駄だろうが、もはや口癖になっている言葉の数々。手を洗え、歯を磨け、早く風呂に入れ。俺はコイツの母親ではないのだけれど。
「ぐちゃぐちゃのヤツでいーよな」
「……スクランブルエッグな」
 バターとチーズを取り出しながら、アイツはご機嫌だ。俺は机を拭き、マグカップとフォークを棚から取り出した。
 フライパンから昇る、こうばしい朝の匂い。バターの溶ける幸福な音、卵液の焼ける音。じゅわじゅわと広がるメロディの中、ケトルに湯を溜め沸騰させる。インスタントでも、コーヒーの香りは身体中をかけめぐる。
 チン、とトースターが鳴ったのと、アイツが皿にスクランブルエッグを乗せたのは同時だった。アイツは朝のスクランブルエッグと、深夜のチャーハンだけは手早く作ることが出来るようになっていた。味つけのセンスもいい。俺は安心してコーヒーにミルクを混ぜることに専念できた。
 スクランブルエッグと、カフェオレ二つに、トースト。机の上に並び終えて、ジャムの蓋を開けた。ほんのりと秋の甘い香りがして、金色の液体はスプーンにこってりと乗った。
 二人のトーストにオレンジの小花が散る。秋の食卓の完成だ。完璧な朝ごはんを前に、俺たちは両手をあわせる。
「いただきます」
「……うめぇ」
 とろりと甘いジャムに、スクランブルエッグのチーズの塩気が美味しい。カフェオレは腹を温め、バターは頬の中で踊る。
「うまいな」
「うまい」
 この呑気な会話も、大家さんの部屋まで筒抜けだろうか。だとしたら今だけありがたい。普段はうるさい我が家でも、感謝と温もりに満ちていることを伝えたい。
「なあ、今度お礼しに行こうぜ」
 空っぽの皿の前で、アイツは怪訝そうな顔をした。
「お礼っつったって、何すんだよ」
「そうだな……俺たちもジャムを作ってみるとか」
 金木犀なら、ロードワーク中にそこらかしこに咲いている。二人で鍋とにらめっこしながらジャムを煮詰めるのも、秋の夜長に楽しいかもしれない。
「そんなもん作ったことねーぞ」
「調べてやってみよう」
 皿をシンクに移しながら、レシピを検索する。円城寺さんに聞けばアドバイスも貰えるかもしれない。
「約束な」
「……しょーがねーな」
 美味しかった朝食にほだされたのか、アイツは案外素直に頷いた。俺はジャムの残りを冷蔵庫にしまって、また明日の朝食を楽しみに思うのだった。明日もまた、ドアノブは賑やかに回る。
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