漣タケ

 夢を本当にする力が、もしあったとして。
「覇王」
「にゃあ」
 路地裏で、いつものネコに煮干しをやる。嬉しそうに喉をごろごろ鳴らす様を見ていると、自然と自分の口角もあがってくる。
 そろそろ寒くなってくる時期だ。コイツは今年、どこでどうやって過ごすのだろう。あたたかい場所で眠れているのか。食い物にはありつけているのか。さみしくなったりはしやしないか。
「チャンプ――っと」
 オマエもいたのか、とあからさまにテンションを下げるチビに、オレ様の口角も下がる。お互い、一人きり――正確には一人と一匹――になれる、とっておきの場所なのだ。邪魔されたともなれば、気分はよろしくない。だけど、退散する気もないし、おそらくチビもそうだろう。仕方なく、といった風にしゃがんで、ポケットから缶詰を取り出した。
「煮干しじゃ味気ないだろ」
「それはエンブンがシンパイってらーめん屋がいってたヤツだろ」
 覇王は自分の話をされているのもどうでもいいといったようで、与えられたメシをうまそうに食う。コイツのこの表情が見られただけで、もう十分満足ではある。チビも嬉しそうに微笑んでいた。オレ様が見ていることに気づいた途端、あわてて真顔に戻っていたが、今更だと思う。
「なあ、チビ」
「なんだよ」
「昨日って、夢、見たか」
「夢? なんだよ、突然」
 オレ様は普段、夢を見ない。見ても覚えていない。寝言言ってたよ、と周りに言われることしばしば、だが起きてすぐ忘れるようなら大したことはないのだろうと思う。だけど昨日はいつ振りか、大層な夢を見た気がするのだ。大きく手を伸ばしたのに何も掴めず、空を藻掻いているうちに汗だくになって目が覚めるような――
「あんまり見ないな。見ても、起きてすぐに忘れちまう」
 首をかしげ、視線を遠くにやりながら答えるチビの回答は、想像通りのものだった。オレ様たちは夢に振り回されたりしない。起きている間の世界の方が、あまりにも目まぐるしいから。
「なんかあったのか」
「別に」
 なのに。起きてから、ずっと身体がふわふわしている、なんて、どうして言えようか。もしかしたらパラレルワールドに行っていたんじゃないかと身体が錯覚していて、意識だけが中途半端に現世に放り出されている感覚だ。
 だから、目の前にいるチビが、本物かどうか確かめたくなった。
「……なんだよ」
 チビの頬を摘まむ。苛立ちながらこちらを睨むチビに迫力はない。本当に嫌なら即座に振り払うはずだ。オレ様のことを心配しているのかと思ったが、覇王の手前、争いたくないのが本音だろう。チビは覇王を撫でる手は止めず、オレ様の指から逃れようと顔を振った。
「いてえ」
「くはは、間抜けヅラ」
 ごろごろ、と覇王の喉の音が二人を包む。随分涼しい季節になった。昼は陽射しがあるが、夜になると途端に肌寒くなる。路地裏に吹く風もそのうち枯葉の匂いを含むだろう。あっという間に衣替えをしていくこの季節は存外嫌いではなかった。
「なあ、獏って知ってるか」
「バク?」
「悪夢を食べてくれる、架空の動物だ」
 チビは何かを思い出すかのように遠くを見つめていて、でもその視線の先には建物の壁しかなくて。チビの見ているものが見たくなって、でも見えなくて、ひとり置いて行かれたような気分になる。
「昔、本当にいると思ってたんだ」
「……おとぎばなしだろ」
「そうだけど。でも、ほんとうに」
 いるとおもったんだ。覇王がにゃあと鳴き、チビに顔を擦りつける。肯定しているのかもしれない。オレ様にはバクの顔はわからない。
「枕を三回叩いてから寝ると、獏がきてくれるからねって。俺、小さい頃、夜眠れないことがあったんだ」
「へえ。今じゃ寝ころんだらすぐさま寝てんのにな」
「オマエほどじゃない」
 ちら、とこちらを睨んだチビは、そのままぽつりぽつりと昔話をしだした。苦しい夢、寂しい夢を見て、泣きながら起きたことがあること。起きてから安心しても、夢の中の自分は救えないまま置いてきてしまったような気がしていたこと。
「どうしても眠れない夜に、教わったんだ。獏が来てくれるおまじない、って。獏が来て、悪夢を食べてくれるからね、獏はお腹いっぱいになるだけだから辛くないのよ、って」
 チビは話しながらスマホで獏を調べて、出てきた画像をオレ様に見せる。白と黒のソイツは、探せば動物園にいそうだった。
「……アイドルになる前も、たまに思い出したようにやってたな。獏が来てくれるようにというよりは、よく眠れるおまじないみたいな感じでだけど」
 コイツがそんなまじないをやっているところは見たことがない。寝つきが悪い印象もない。オレ様が不思議そうな顔をしていたのか、チビはこちらを見て小さく笑った。
「今はもうやってない。毎日大変で、すぐ寝ちまうからな。……だから、獏のこと、忘れてた」
 空になった缶詰めを持ってきていたビニール袋に入れ、口を縛る。名残惜しそうに鳴く覇王を優しく撫でながら、アイツはさみしそうに呟いた。
「こうして、大人になっていくのかな。小さい頃のおまじないとか、忘れて」
 立ち上がり、伸びをするチビに、オレ様はなんと言葉をかけたらよいか悩んだ。チビは、オレ様から見ればガキだ。世間的にもまだ未成年だからガキであることに変わりはない。だけど、オレ様と初めて会ったあの頃と比べれば、確実に成長はしている――身長はそんなに伸びてないが。
「……また、やればいーだろ」
「え?」
「まじないくらい。いつでもできる」
 さらさらと、風が髪を撫でていく。オレ様はポケットにつっこんだ両手を握ったり開いたりしながら、チビの耳の形を見ていた。オレ様の声が吸い込まれていく。
「今日やってみろよ。見ててやっから」
「……泊りに来る気か」
「ありがたく思いやがれ」
「なんでだよ」
「バクが来たか、オレ様が見ててやれるだろーが」
「……オマエ、布団に入ったらすぐ寝ちまうだろ」
 クスっと笑ったチビの顔は、さっきまで遠くを見ていたのとは別人のようにほころんでいた。下僕にも、らーめん屋にも、他の誰にも見せたことのないような柔らかな笑みは、オレ様と覇王しか知らない。
「悪夢見てたの、オマエの方じゃなかったか」
「……んなもん忘れた」
 バクは、パラレルワールドの自分も救ってくれるだろうか。飲み込んだ悪夢は、バクの栄養となって、誰かの未来に繋がっていくのだろうか。身体の浮遊感はすっかり消えていた。夢の中で掴めなかったナニカを、掴んだような気がした。
 夢を本当にする力が、もしあったとして。
 オレ様は、バクには負けたくないな、と思った。
 チビがどんな夢を見ているかは知らない。その世界にオレ様がいないのは許せない。だけど、もし夢の中のように、空を歩いてチビの元へ行けるなら。手を伸ばして、チビの手を掴めるのなら。そして、頂点へと立てるのなら。
 そんな夢なら、己の力で叶えるまでだ。
 どんな冒険も、してやろうじゃないか。
「……じゃあ、今夜、待ってるから」
「メシも用意しとけ」
「調子に乗るな」
 枕を三回叩いたチビは、安心して眠りにつけるだろうか。チビが呼んだバクは、オレ様の夢も物色するだろうか。
 今夜は、二人でしあわせな夢を見よう。
 小さい頃の自分が安心して眠れるようなパラレルワールドへ。
 バクが嫉妬するくらいの、大冒険を。
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