漣タケ

 この世に十月があって嬉しい、そう言ったのは赤毛のアンだったか。俺は読んだことがないから知らないけれど。
 確かに、ようやく涼しくなって秋めいてきたこの頃を、俺も嬉しく思う。夏と冬ばかりの世界はいやだ。くたびれてきた半袖のティーシャツを肩までまくるのを、そろそろやめていいかもしれない。
「人間、ライオン、ワシ、ライチョウ、角の生えたシカ、ガチョウ」
「なにジュモン唱えてんだよ」
 ベッドに腰かけながら台本を口にしていると、菓子を食い終わったアイツが振り向く。机の上の麦茶を見て、夏の残り香を感じた。
「チェーホフのカモメだ。今通ってるワークショップの、次までの課題だ」
「動物の名前言ってるだけじゃねーか」
「このシーンだけだっつの……」
 演劇の短期ワークショップは実践あるのみで、古典名作に触れてみよう、というものだった。女性の参加者が少ないため、一番若い俺がニーナ役を振られた。女性役をやるだなんてはじめてで、女性らしくする必要はないとは言われているけれど、どうにもこそばゆくて、練習せずにはいられない。
「蜘蛛、水に棲む物言わぬ魚……」
「ほら、やっぱり生き物並べてるだけだ」
「だから、ここだけだって」
 ニーナは序盤、希望に満ち溢れている。後半の絶望渦巻くシーンの対比になるから、瑞々しい喜びを体現しないといけない。夏の日差し、湖のほとり。ロシアってどんなところだろう。
「作家とか女優になる幸せのためだったらわたし、家族や友達に憎まれたって、貧乏だって幻滅だって我慢する」
 アイドルを志したときのことを思い出す。ボクサーより、多くの人の目に留まることを望んだあの日。どんな困難だって乗り越えてみせると誓った。ニーナの憧れほど可憐なものではないけれど、誰かにこんな風に希望を与えられていたらと思う。
「チビが女役とか、ぴったりだな」
「人が気持ち作ってるときに……」
 邪魔をしないでほしい。そう言おうとすると、アイツは珍しく持っていたカバンからごそごそと台本を取り出した。
「オマエも本読みするか? 俺、音読してて大丈夫か」
「ハッ、オレ様は声にださなくても台詞くらい覚えられんだよ」
 昔は人前で台本なんか読まなかったのに。俺の部屋に勝手に上がり込むようななって、どれくらい経つだろう。いつからか、本読みをする姿を見せるようになった。心を許されているようで、少しむず痒い。
「じゃあ、俺は続けるから」
「わーったっつの」
 アイツが台本を開くのを見届けて、俺も再び手の中へ視線を落とす。難解だけれど、こんな機会でもなければ知ることもなかったろう世界だから、大切に取り組みたい。
 ワークショップでは、シーンごとにかいつまんで演じていくから、全編通すことはない。台本、もとい与えられたテキストも、抜粋されたものだ。本来の台本は、これの何倍のページ数になるんだろうか。
「わたしは信じているからそんなに辛くはないわ。そして自分の天職を考えると、生きていくこともこわくない」
 嵐の夜の、狂気的なシーン。俺はボクサー時代も、アイドルになってからも、こんなにもボロボロになったことはない。生きることの不安と絶望の沼から、微かな希望に手を伸ばしもがくことの苦しみを想像する。泣いてしまいたくなるような夜を、しばらく忘れていたことに気付いた。
「……なあ」
「なんだ」
「それ、キスシーンねーか」
「……え」
 アイツがチェーホフを知っているなんて思えない。なんの勘だ。俺が持っている台本の中には、そんなシーンはなかった。スマホで検索し、トレープレフとのキスシーンがあることを知る。
「……なんで分かったんだ」
「若い女の役なんだろ。んで昔のシバイなら、そんくらいあんだろ」
「……まあ、そうか」
 おもむろに台本を閉じ、ゆっくりとベッドに近付いてくるアイツを見て、俺は慌てた。
「そのシーンは稽古しなくていいんだぞ」
「オレ様がしたくなった時にすんだよ」
 オマエだって台本読みしてただろ、まさかキスシーンがあるのはオマエの方なんじゃないか、集中を乱すな、邪魔をするな、言いたいことは山ほどあるのに、全て唇で塞がれてしまう。湿った吐息は妙に熱くて、一瞬の体温に眩暈がする。悔しい。俺は気付けば台本を遠くに置いていた。
「……もしかして、女役の俺にサカったのか」
「うるせー」
 俺の肩を掴む強引な手のひらに、こんなんじゃ練習にもならない、と思った。俺たちの間に練習なんかいらないけれど。いつだってぶっつけ本番だ。
「……オマエ、明日撮影だろ」
「言い訳探すな」
 背中に感じるシーツの皺に溜息をつく。アイツが家に来てなにもないはずがなかったんだ。十月のすずしい風にあたって、アイツが熱に浮かされやすいことをすっかり忘れていた。
「なあ」
「んだよ」
「十月があって、よかったな」
「……なんだよ、突然」
 キスを交わしながら、窓の外を見る。秋空はすっかり高く、晴れやかに澄み渡っていた。泣きたくなるような夜なんて、どこにもなかった。
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