漣タケ

 夜の散歩のお供に、強炭酸水を買ってみた。水より幾分か気分が晴れやかになる気がしたのだ。
 今夜は中秋の名月と十五夜がかぶっているそうで、それはとても珍しいことのようだった。台本チェックもひと段落したことだしとサンダルで外に出てみれば、なるほど綺麗な月夜だった。炭酸水はぴりぴりと喉を通過して、脳が冴えわたる心地がする。
 花札で、月見で一杯という役がある。花見で一杯という役とセットで覚えたのだが、花見は春にしかできないのに対して、月なんか毎晩出てるのになんで特別視するんだろうと不思議に思ったものだ。これだけ見事な月なら、そりゃああやかりたくもなる。俺はまだ酒は飲めないけれど、綺麗なものを愛でながら飲む酒はきっとうまいんだろう。しゅわしゅわと舌の上で炭酸が弾ける。
「あ? なんでチビがこんなとこいんだよ」
「……オマエか」
 聞きなれた声に振り向けば、仕事帰りであろうアイツがいた。変装のつもりなのだろうか、パーカーのフードを被っていて、一瞬誰だかわからなかった。フードを取って頭をひと振りしたアイツの銀髪が夜に煌めく。
「何してんだ」
「別に、散歩だ。今日は中秋の名月で、十五夜らしいから」
「んだソレ」
「ようは月が綺麗な日って意味だ」
 見てみろ、と空を見上げれば、しぶしぶアイツも釣られる。荘厳なのに高圧的でない、やわらかなのに力強い、月光って不思議な光だと思う。
「……ツキミ」
「ああ、月見の散歩だ」
「ツキミっつったら、団子だろ。団子買いやがれ」
「オマエはほんとに……」
 花より団子だな、と言おうとして、先ほど花見で一杯の役について考えていたことを思い出した。花見も月見も、コイツにとっては団子の次なんだろう。
「……たぶん、スーパーで売ってるだろ。買ったらオマエ、うち来るか」
「……じゃなきゃこんなとこいねーっつの」
 なるほど、最初から我が家に来る気でいたのか。それならあらかじめ連絡をよこせと、なんども言っているのに。溜息を吐きながら、炭酸水を勢いづけて飲む。
「喉乾いた。それよこせ」
「あっ、それ炭酸だぞ」
「ウワッ、先に言えっつーの」
「オマエが話を聞かないからだろ」
 ぱっと俺の手から炭酸水を奪い口に含んだ途端、目を見開いたアイツの顔は面白かった。月と同じ色の瞳が俺を睨む。びっくりしただけで炭酸水自体が嫌だったようではないらしく、アイツはそのまま何口か飲んでから俺にペットボトルを返した。ラベルの下まで量が減っている。
 スーパーまでの道のりは遠くない。だけど、月夜の散歩が気持ちよくて、俺たちは並んでゆっくり歩いた。街自体は賑わっている気配がするのに、不思議と静かな夜だった。
「月にうさぎが住んでるって、昔、信じてたな」
 月を見上げた時の黒い影の形をなぞると、餅つきをしているうさぎになる、なんて、誰が言い出したのだろう。確か海外では、女優の横顔とか、蟹になったんじゃなかったか。
「……オレ様も、そう聞いてた」
「へえ、オマエもか」
「……寂しくないのか、ずっと気になってた」
 月からも、地球って見えるだろ。そう呟いてアイツは俺から炭酸水を奪う。俺は月に住むうさぎのことを考える。青い星に焦がれて、仲間と身を寄せあっている様子。
「……オマエも、月を見て寂しくなったりするのか」
「しねーよ。うさぎじゃねえんだぞ」
 いつのまにか空になったペットボトルを、通りがかった自販機横のゴミ箱に捨てる。腹の中で、まだ泡が弾けてる感覚がする。目玉の裏がぱちぱちする。
「チビはうさぎだから寂しくなるのかもしんねーけどな」
「誰が」
 神々しいほどに眩しい光を見上げる。うさぎ達からは、こちらが見えているだろうか。俺たちは元気でやってるよ。だから、何も心配はいらない。
 スーパーでは、予想通り、十五夜の文字が躍った団子が売られていた。アイツの分と俺の分、ふたつカゴに入れて、レジに並ぶ。
 入口で突っ立って待ってるアイツの横顔をチラリと見た。月を見上げるその瞳の色が、赤くなくてよかったと思った。うさぎの寂しさについて、俺は結局、想像することしかできなかったから。
「帰ったらまず、手洗いしろよ」
「うるせー」
 コイツ用の布団を敷かなきゃな、と考えながら、また道をゆっくりと並んで歩いた。爪先に当たった小石が、どこかの家の入口まで転がる。
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