漣タケ

 電車で隣に座った人が、花束を持っていた。
 横を見なければ気づかないほどこぢんまりとした素朴な花束で、一輪、ひまわりだけが目を引くように鮮やかだった。
 隣の人はそれを嬉しそうに、大事そうに何度も抱え直すものだから、自然と目が引き寄せられてしまう。きっと、じっと動かない人であれば、花束を持っていたことにも気づかなかっただろう。
 花束は、職業柄、よく貰う。ドラマのクランクアップが主だ。ライブや舞台でもフラワースタンドを貰うが、持って帰れるものではない。手の中にすっぽりとおさまるサイズだと、家や事務所に飾れてささやかに嬉しくなる。
 花は、一過性の美しさだ。あっというまに枯れてしまうし、それは手入れを怠れば尚のこと早まる。綺麗にドライフラワーにできれば長く楽しめるのだろうけど、自分はそこまで器用ではない。そんな一瞬の美しさを、わざわざ俺のために贈ってくれる存在がいるということは、なんと嬉しいことだろうか。右隣のひまわりを見ながら、そんなことを思う。きっとこの花たちは、帰宅後、速やかに花瓶に生けられるのだろう。存分に愛されてから散るに違いない。儚い栄華。俺は自分の右手の甲を見た。
 昨夜、夜もとっぷり更けた頃、アイツと、そんな雰囲気になった。雰囲気を察知するのはいつからか得た技術で、それまではお互いとんと鈍感だったけれど、近頃では言葉を交わさずとも流れに乗る形になっていた。
 身体を重ねていた時のこと。右手からがり、と音が鳴り、次いで痛みが走った。見ると、血がうっすらと滲んでいた。
「……悪ぃ」
 気まずそうに言ったアイツは、そのまま俺の手の甲に舌を這わせた。じくじくと痛みが広がり、俺は顔を顰める。吸血鬼に血を吸われるのって、こんな感じだろうか。
「浅いだろうし、撮影もないし」
 そのまま右手で、アイツの頬を撫でた。このくらいならすぐ治る、気にすることではない。眉間に皺を寄せたままのアイツは、俺の手に手を重ねたまま、唇を塞ぐ。不器用な彼なりの謝罪。ちょっとだけ俺の血の味がして、苦かった。
 降りる駅が近い。一つ手前の駅で、隣の人がふわりと立った。鮮やかな緑色のワンピースを着ている。それはひまわりの花束を特別際立たせるような、綺麗な装いだった。顔まで見てないから、どんな人なのかはわからないけれど、きっとひまわりが似合う人なのだろう。彼女に花束を贈った人に、彼女の喜びっぷりを伝えたくなるほどには、うかうかした足取りで電車を降りて行った。さようなら、ひまわりの似合う人。右隣に微かに残った花の香りを嗅ぐ。
 帰宅すると、先にアイツが家にいた。「ただいま」と言えば、小さく「おかえり」と返してくれる。合鍵を持たせて、半年ほどになる。気まぐれに我が家に泊まっていく猫が「ただいま」と「おかえり」を覚えてくれたことに、こそばゆい嬉しさを覚える。
「ん」
「なんだ」
「……詫び」
 青い花の、小さな小さな花束が、机の上にころんと転がっていた。隣に、我が家で一番小さな花瓶も添えられている。
「これ、オマエが買ったのか」
「……悪いかよ」
「……ふ」
「何笑ってんだよ」
「いや、なんでもない。ありがとう、嬉しい」
 一瞬の栄華を受け取る幸福について、なんて、堅苦しい言い方をすればそれまでなのだけど。ついさっきまで、隣の人が花束を持ってたんだ、とコイツに言っても、きょとんとするだけだろう。あまりの偶然と、コイツらしからぬ詫びに、おかしさが込み上がってくる。
「食べ物じゃないなんて、珍しいな」
「花屋の前通りがかったんだよ」
 そしたら、なんか。そう言ってそっぽを向く彼の耳が赤い。彼らしくない花束をそっと手に取り、抱きしめた。俺もうかうかしそうだ。身体中が喜びにつつまれる。
「嬉しいよ」
「……そーかよ」
 そのままぼそりと、夕飯は鍋がいいとのたまうもんだから、恥ずかしいのを誤魔化してるのか腹が減ってるのかどちらかを見極めもせず、俺はまた笑った。だって、どっちでもいいからだ。俺も夕飯は鍋がいい。
「じゃあ、材料買いに行こう。一緒に」
「仕方ねぇな」
 花束を花瓶に生ける時、右手の傷が目に入った。すでに薄くなっているそこに、そっと唇を這わす。
 青い花。ドラマでも舞台でもライブでもなく、この傷を癒すための花。この花が散るより早く傷は治るだろう。それから、また身体を重ねるのだろう。その時、きっとアイツはしっかり爪を切っているに違いない。やっぱりおかしくなって、俺はこっそり笑う。
「早くしろよ、チビ」
「ああ、今行く」
 玄関で待つ彼の元へ急ぐ足元は、やっぱり少しうかうかしていた。
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