漣タケ

 飴を捨てた。カバンの底でどろどろに溶けてしまっていたからだ。
 誰に貰ったんだったか、おそらくヘアメイクスタッフさんだ。こういう気軽な菓子って、ふいに手に入るから持て余してしまう。いつもなら喉ケアにもなるからありがたく食べるのだが、立て続けの撮影ですっかり忘れてしまっていたようだ。
「なあ、飴持ってないか」
「持ってねー」
「そうだな。あったらオマエ、自分で食べてるもんな」
 アイツの当たり前の返答に、一人で納得してしまった。アイツは貰ったら即食べる。収録の直前でもだ。飴は噛み砕くし、口の中がもたつくチョコレートもペロリだ。おかげでメイクさんは、撮影が始まる直前に、アイツの口元をチェックしなければならない。
 浅田飴とか龍角散を持ち歩いている同業者も多いが、俺はどうにもそれらの味が好きになれない。好んで食べるものではないだろうけど、どうせ食べるなら甘いものがいい。疲れた時は甘い物。ハチミツ味なら持ち歩いてもいいかもしれない。
「どうしたんだよ、急に」
「なんか、口寂しくて」
 ただたんに、カバンの底で見つけた飴を捨ててしまったから、それだけに過ぎないのだけど。食べるはずだった小さな甘い欠片が手元から失われたという意識から、なんとなく口寂しい、と思わずにはいられなかった。今、家には菓子もアイスもないし、ココアでも作って飲むか。
「ん」
「ん……?」
 逡巡していると、アイツがおもむろに立ち上がり、こちらに手を伸ばした。まるで赤子がだっこをせがむように――それにしては不愛想だし投げやりか。いきなりのことで、俺はその行為が何を意味するのか全く分からず戸惑ってしまった。
「ほら」
「な、何」
「口寂しいんだろ」
 ん、ともう一度腕を伸ばす。顔を見るに真剣だ。アイツの手の中には何もなく、飴を手渡そうとしている訳でもない。だけど、この手をどうにかしなければならないと思って、思わずそのまま手を重ねてしまった。
 アイツはその手を掴んだかと思えばぐいっと引っ張り、簡単に俺を腕の中に収めてしまった。え、という声を発しようとすれば、そのまま顔を掴まれて唇を塞がれる。
 え、今、そんな流れだったか。
「ん、う」
「ぷは」
 一通り俺の口を貪ったアイツは、満足げに顔を離し舌なめずりをした。ご馳走を食べ終わった後の犬みたいだ。俺は食い物じゃないんだが。
「口寂しかったんだろ」
「……そーいう意味じゃない!」
 俺は飴を求めてただけで、キスがしたかったんじゃない。とんだ勘違いをされたものだ。
 飴の優しい甘さと違って、アイツのキスは、荒々しくて乱暴で、苦しい。溺れてしまいそうになる。気軽な菓子とは正反対だ。どうせならハチミツ味であればいいのに。
「もう一回するか?」
「しない!」
 アイツの腕の中から抜け出して、台所に向かう。ココアじゃだめだ、コーヒーを淹れよう。この心臓の高鳴りを押さえるには、とびきり苦くしないといけない。
「オレ様の分も」
「オマエにはやらない」
「何でだよ!」
 やいやい言い合いながら台所に立つのは好きだ。好きだけど、今は少し一人にしてくれ。
 自分から飴を求めて、アイツにキスを強請ったように思えるのが、どうにも恥ずかしいんだ。
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