漣タケ

 インスタントラーメンに湯を注いでいたら、案の定アイツも「オレ様も食う」と言い出した。
「オマエはさっき菓子を食ってたろ」
「別腹」
 どうせこうなると思って、ケトルには余計に湯を沸かしてあった。アイツは備蓄品を入れてある棚からカップラーメンを取り出し、線まで湯を注ぎ入れる。あとは三分、待つだけ。
 がっつり食べたい時は円城寺さんのラーメンに限るけど、どうしようもない夕方の小腹には、この程度でいい。麦茶をコップに用意して、蓋を剥がして、手を合わせていただきますを言う。
 俺が麺を啜りだしたのと同時くらいに、アイツも蓋を剥がした。三分待ちきれなかったのだろう。
「まだ硬いだろ」
「ヘーキだっつの」
 ズルズルと勢いよく口に吸い込まれていく麺から汁が飛ぶ。仕方ない、ラーメンを食う時の宿命だ。机は後で拭けばいい。
「……俺たち、醤油味ばっか食ってるよな」
「それがなんだよ」
「今度、別の味でも買ってみようか」
「美味けりゃなんでもいい」
 俺とアイツは無言でただただ麺を啜った。小さな肉の欠片を箸で掬い、それを麦茶で飲み干していく。熱くてしょっぱい汁に身体があたたまり、ほかほかと汗が滴ってきた。
「……ラーメンってさ」
「あ?」
「いつ、どこで食ってもうまいよな」
 もちろん円城寺さんのラーメンが一番だけど、と付け足して、麺を大量に掴む。湯気でアイツの顔が見えない。口内というより、喉で食ってる気がして、あわてて数度噛みしめた。このチープな塩辛さが今の気分にちょうどいい。
「……チビはどうせ、ドブみたいなメシ食ったことないんだろ」
「まずいメシくらい何度もある」
「違げえよ。ドブ。泥みたいなヤツ」
 食いものならなんでも平らげるアイツから、そんな言葉が飛び出るなんて思わなくて、思わず箸を止めてしまった。アイツは俺より後に食べだしたのに、もう汁まで飲み干そうとしている。人のことは言えないけど、ちゃんと噛め、ちゃんと味わえ。
「……食事には、恵まれてる、と思う」
 恵まれているからこそ、こういったインスタント食品が恋しくなることがあるんだと思う。ボクサー時代はもっとストイックに料理に気を遣っていたけど、今は好きなものを美味しく食べられることが嬉しい。
「オレ様の勝ちだな」
「今勝負はしてなかったろ」
 俺だってあと数口で食べ終わる。今から急いでも意味はないので、変わらず自分のペースで食べてやる。
「……メシにありつけるだけで、コーフクなんだよ」
「……それは、そうだな」
 アイツが何を経験してきたのかは知らない。だけど、こうして毎日、当たり前に食事をすることが出来るのも、たまにインスタント食品が恋しくなるのも、全部、今を平和に生きていられるおかげだ。
 見失ってしまいそうな幸福を、大切にしたい。
「ごちそうさまでした」
 手を合わせ、麦茶を飲み干した。部屋の換気をしないと、空気まで塩辛い。
 アイツはごろりと横になり、満足げにあくびをしていた。よかったな、しあわせそうで。俺は洗い物を済ませたら、筋トレでもしよう。アイツの分まで箸を拾い、シンクで水を流していると、「チビ」と後ろから声をかけられた。
「火を使うようになったから、人間って進化したらしーぜ」
「知ってるが、そんなこと」
「料理するってことを思いついた奴がスゲーってことだ」
 水に手を濡らしながら火のことを考えるのはなんだかちぐはぐな気もしたが、まあ確かに、と考えた。煮たり焼いたりして、殺菌したり取り込む栄養が違ったりしたから、サルから人間になっていったんじゃなかったっけ。小学生の時の授業なんて、もう覚えていない。
「オマエは料理しないくせに」
「チビとからーめん屋の誕生日にやってんだろ!」
「……まあ、そうか」
 近頃、家はIHコンロだから、学校の理科の授業ではじめて火を見たという小学生が多々いるらしいというニュースを知った。アルコールランプに燃える火を見た時、その子たちは何を思うのだろう。
 命の灯、という言葉がある。オリンピックでは聖火リレーがある。火を大切にする宗教もなかったっけ。すごいなあ。人類の歴史って。火とともにあるんだなあ。
「変な時間にカップ麺食っちまったな。当分夕飯食えないだろ」
「ああ? 腹減ったら食うに決まってんだろ」
 言うと思った。冷凍庫から冷蔵庫に肉を移す。この肉は何に調理しようか。どうやって俺たちの胃におさめようか。
「……キャンプファイヤーの動画、流行ってなかったっけ」
「んだソレ」
 スマホで、キャンプファイヤー、と検索する。適当に一番上の動画を流して、二人でぼうっとながめていた。ぱちぱちと弾ける火の音に、あたたまったはずの腹が更にあたたまるような不思議な心地がした。
「……チビ」
「ん?」
「死んだら、灰になるんだぜ、この国じゃ」
「……そうだな。火葬される」
 だからどうした、と聞こうとしたら、ふいに肩を抱かれた。嫌な気持ちはしなかった。火の気配に圧倒されて、アイツの温もりが恋しかった。
 唇はお互いしょっぱかった。窓を開けっぱなしにしているのを思い出して、胸に手をやったのに、掴まれて封じられてしまう。世界が夕方から夜になる。
 食欲が満たされた後は、性欲か。火から生まれた話をして、火の映像を見て、火の中で死んでいく話をして、俺たちは何を生き急いでいるんだろう。
 うすらかいた汗をなぞられ、小さな声を出した時。アイツの瞳の中に、小さな炎を見た気がした。
 夕飯は当分先だな。インスタントな愛を味わいながら、日常の中のしあわせについて思いを馳せていた。
 この幸福を、見失ってなるものか。
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