漣タケ

  口内炎が出来た。ありていに言えば、歌の仕事が無くて助かった。
 タケルは鏡の中の己を見つめながら、深々と溜息を吐く。このところ睡眠時間が不規則だったからか、ラーメンばかり食べて不摂生だったからか。考えれば理由は分かると思ったものの、いつも通り過ごしていただけなので、やはりわからずじまいだ。救急箱に口内炎パッチが入っていた気がして探してみればそれは当たり、ついでにビタミン剤も飲む。出来ることはやってしまおうという魂胆だ。
 ひとつだけ気にかかることがある。タケルの溜息の原因はこれだ。余りの痛さに喋れないわけでも、食べられないわけでもなく、仕事も当分は撮影やインタビューしかないのだが。問題をひとつあげるならば、漣のことが気にかかった。
 要するに、キスが出来ないわけである。
 漣の口づけは荒々しい。噛みつくような、と形容できるほど傲慢だ。タケルはしばしば、その行為中に捕食されている気分になる。身体じゅう吸い尽くされて、このままひとつになってしまうんじゃないかと、怖くさえ思ったことがある。しかし負けず嫌いな性分なものだから、反抗して自分からも食って掛かるため、二人はしばしば乱暴なキスをするのだった。
「オイ」
「何だ」
「しばらく、……キス、しないからな」
「はあ? なんでだよ」
 突然切り出されたのだから、漣の反応も尤もであった。所謂「いい雰囲気」になってからやんわりと断っても漣が聞くはずない、ならば最初から宣言しておかなければ、と考えたタケルは真っ向から挑んだが、気の利いた理由も言えずだんまりになる。リビングではエアコンが勢いよく冷気を吐き出しており、部屋を涼しくすることに努めていた。
「……口内炎が出来たから」
「くはは、だっせえの」
「うるさい。だから、治るまでダメだからな」
 漣は笑い終えたあと、悪戯を思いついた子供のようににやりと口角を上げタケルを見た。途端、タケルに悪寒が走る。ああ、また何か企んでいるに違いない。悪い予感は的中し、漣はほくそ笑んだままタケルに近付き、強引に顎を掴んだ。必死にその腕から逃れようとしても、無理やり抑え込まれてしまう。ここで降参するわけにはいかない。タケルは漣を強く睨んだ。
「どこだよ」
「口内炎パッチ貼ってるぞ」
「関係ねー」
「苦いって……!」
 口内を長い舌が侵す。丹念に口蓋を舐め、頬の裏を探る。痛みとくすぐったさで腰の引けたタケルの肩を抱き寄せ、漣はさらに深く舌を伸ばした。
「いっ」
「ここか」
 舌先でパッチをめくりあげ、ペッと吐き出した漣は案の定「苦げえ」と眉をしかめた。だから言ったのに、というタケルの言葉は、またしても漣の唇によって塞がれてしまう。じっとりとした汗が、二人の背中に流れた。
「い、ひゃい」
「腰ビクビクしてんぞ」
「痛い、からだっ、て」
 タケルの後頭部と腰に手を添えた漣は、水を得た魚のように好き勝手に口内をまさぐった。おあずけなんて、はなから無理だったのだ。タケルは観念した。待ての出来ない犬に、ごちそうを見せながらじゃ、何を言っても無駄だった。
「ふ、あ」
 ぐりぐりと舌先で撫でられ、鋭利な刺激に脳がチクチクする。涙目になったタケルの静止も聞かず、漣は鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だった。
「も、やめ……ッ」
「ごっそさん」
 タケルを解放した漣は、タケルの目元の涙を舐め、今度は「しょっぺー」と言って笑った。荒々しい呼吸を正しながら、タケルは何度目かわからない溜息を吐く。口内炎パッチは、さっきのが最後の一個だったのだ。
 漣のせいで悪化したのだから、責任を取って買ってきてほしい。ビタミン剤も追加で飲んだら、効果はあるだろうか。ひりひりする口内を労わるようにミネラルウォーターを飲みながら、タケルはそんなことを考えるのだった。
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