漣タケ

 紫陽花を二輪、手に持って帰る。適当な植垣から折ってきたが、どこかの家の庭だったのかもしれない。申し訳なく思う心も薄くなる。じんわりとした世界に、肌が汗を纏いだす。
「ただいま」
「おかえり」
 小さな声で呟いても、必ず返事が返ってくる。オレ様の帰りを今か今かと待っていたのかと考えてしまう。きっとたまたまだ。たまたま起きてて、たまたま耳を澄ましていただけだ。そう思わなければやってられない。
「今日はなんだ?」
「ん」
 ベッドの横まで行って、紫陽花を渡す。チビは花の部分を触りながら、首を傾げては戻し、傾げては戻ししていた。
「紫陽花か?」
「そうだ」
「何色だ? 水色?」
「そうだ」
 ぶっきらぼうにしか答えられないオレ様に構わず、チビはぱあっと顔を綻ばせて、大事そうに紫陽花を抱えなおした。
「水色っていいよな。好きな色だ。雨上がりの水たまりの色、夏の空の色」
 まだ花瓶あるか? そう聞きながら左手でオレ様を探す。その手を掴み、オレ様の頬へと運んだ。チビは不思議そうにしたあと、ふわりと笑って「おかえり」ともう一度口にした。
 チビと二人で暮らしだして半年になる。身体の丈夫さに関しては、オレ様もチビも誰にも負けない自信があったのに、ある時チビが、高熱にうなされた。三日三晩苦しんだあと、残ったのは、真っ暗な闇。
 チビの目は、世界を映すことを忘れてしまった。
 医者いわく、一時的なものと言われているが、もう一ヶ月経っている。オレ様は毎日、外出から帰ったあと、花を手渡す。チビが色を忘れないように。世界から取り残されてしまわないように。
「紫陽花って、土で花の色が変わるよな。水に活けても変わるんだっけか」
「……知らねー」
「オマエ、見ててくれよ。もし紫とか赤になったら教えてくれ」
「教えてどーすんだよ」
「思い出すんだよ。夕暮れの、昼と夜の境目の色」
「……そーだな」
 いつも気を張っているチビの、あどけない顔は、随分幼く見えた。花瓶に活けた紫陽花を、出窓に飾る。ここならいつでも視界に入る。他の花々のしおれ具合を見て、古くなったものは捨てた。部屋から花が減っても、チビは気付かない。
「なあ、俺が一番好きな色って知ってるか」
「……知らねーな」
「銀色だ。オマエの色」
「……」
「光に包まれた世界の色。透き通ったり、虹色になったり、一番きれいな色」
 そっと立ち上がり、気配を頼りにオレ様の方へ近寄るチビ。オレ様は慌ててゴミ箱から離れ、チビの元へ駆け寄った。
「輝きを全部あつめた、宝物みたいな色」
「わかったっつの」
 オレ様の髪を触りながら、やわらかく微笑むチビの髪を撫で返した。海の深い色。どこまでも沈んでいきそうな色。
 部屋の真ん中で、オレ様たちは唇を合わせた。誰にも見られていないのに、ほんの僅かに、軽く。
「……このままチビが消えちまいそうで、ヤだ」
「消えねえよ。俺は絶対、オマエの前から消えない」
 この色を手放してなるものか。どの花より鮮やかな、全てを包む色を抱きしめた。光を全部集めたら、深海の底に辿り着けるだろうか。
「この部屋、すっかりいい匂いになったな。花屋みたいだ」
「……花屋になる前に、さっさと治しやがれ」
「ははは、そうだな」
 チビをベッドに運び、もう一度頭を撫ぜた。やわらかなぬくもり。オレ様を掴んで離さない青。
 明日は何色の花を持ってこようか。家中の花瓶をかき集めながら、オレ様は一人、部屋を見渡した。
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