漣タケ

 荷ほどきをしている手を休めて、ベランダの窓を開けた。さあっと新しい風が駆け抜けていく。まだカーテンも付けていない窓辺は陽射しをそのまま迎え入れて、ぽかぽかとあたたかかった。
 テーブル、椅子、食器棚。二人で選んだ家具たちが、所在なさげにうかうかしている。これから馴染んでいくんだろう。そして、置かれているのが当たり前になっていく。ソファをひと撫でして、おおきく伸びをした。この空色を選んだのはアイツだ。
 ただ暮らせればそれでいい、と思っていた俺たちを、事務所の人々は強く説得し続けた。何年も住むことになるんだから使い勝手のいいものを、ストレスのない快適さは自分で作るものだ、と。言われてみればそれは全くその通りで、俺はもうすっかりこの部屋が気に入っている。こげ茶で揃えた家具たち、そのなかでひとつだけ明るい色のソファ。二人で暮らすのにちょうどいい広さの部屋。
 カーテンを取り付ける前にコーヒーでも淹れてみようか、引っ越し祝いに貰ったドリップパック。豆から挽く丁寧な暮らしはできないけれど、インスタントの粉じゃないだけリッチな気分だ。食器の入った段ボールを探そうとして、ふと目に留まったのは「ぬいぐるみ」の文字。
 この段ボールだけ、異様に軽い。中身は、伸びる猫のグッズだ。こまごましたものがいくつかと、とても大きなぬいぐるみがひとつ。
 アイツがUFOキャッチャーで取ってくれたんだよな。二人ではじめてデートらしいデートをした時、ゲーセンに行って。会話も少なくてどうしたもんかと思っていたら、俺の好きなキャラがあって。何度か試してみてダメで、しびれを切らしたアイツが貸せといって、見事一発で景品を取ったんだ。マンチカンのでかいぬいぐるみを抱きしめてからはじめて、このあとのデートに邪魔になることに気付いて、二人で笑ったっけ。
 あれはもう、何年前になるだろう。初めて想いを伝えあってすぐのことだ。それまでが随分長かったから、結局俺たちはどっちが先に好きになったのかわからずにいる。
 マグカップを段ボールの中から見つけ出すのは一苦労で、このままキッチンの片づけもやってしまおうと決めた。ケトルで湯を沸かしている間――ケトルと電子レンジは最初に設置した、片づけでくたくたになったあとの夕飯のことを考えて――マグカップをひとつずつ、棚にしまっていく。
 付き合うようになって、最初に意識して「お揃い」を買ったのはこのマグカップだ。赤いのと青いの、それぞれワンポイントで肉球のマークが描いてある。朝、牛乳を一杯飲むのがお互いの習慣で、その時必ず使うものだから、一日一回は洗っているため、手が細部まで覚えている。取っ手の出っ張り、飲み口のなめらかさ。記憶だけでスケッチしろ、と言われたら、もしかしたら出来てしまうかもしれない。
 湯を沸かしながら、フォーク、ナイフを仕舞い、続いて小花柄のついた大皿を仕舞った。これは前の住まいで同棲らしい同棲をし始めた時、円城寺さんがくれたものだ。料理が面倒くさくなったら、この大皿にどんと盛れるものを作るだけでいい、と。その教えはありがたく我が家に浸透している。
 コーヒーと皿の他にも、タオルや観葉植物なんかを、事務所の仲間たちから引っ越し祝いで貰った。どれも家を彩るのにちょうどよくて、みんなのセンスに脱帽する。茶碗と小皿に取り掛かる前に湯が沸いた。「ブルーマウンテン」と書かれた袋を破き、マグカップにコーヒーの入った袋をセットする。いい香りだ。この瞬間が、コーヒーを飲みたくなる理由のひとつだ。
 アイツはコーヒーがあまり好きではない。俺も得意というわけではないから、二人していつも牛乳を混ぜて飲んでいる。だけど、今日はなんとなく、そのままで飲みたい気分だった。身体がすっきりしたがっているのかもしれない。
 コーヒーを淹れ終わったタイミングで、ドアのガチャガチャいう音が聞こえた。アイツが「帰って」来た。はじめての帰宅に、俺は玄関まで出迎える。
「おかえり」
「……ただいま」
 この家で言うのも、まだ新鮮で不慣れだ。だけど、これもいずれ当たり前になっていく。
 アイツに「ただいま」を言わせたくて、必死だったあの頃をを思い出しながら、俺はアイツの分のコーヒーも用意した。もちろん牛乳を混ぜて。ああ、ここまで来たんだなあ、俺たち。コーヒーの黒と牛乳の白がくるくると混ざっていく。
 家なしだったアイツは当時、事務所、プロデューサーの家、円城寺さんの家を点々としていた。ある嵐の夜、プロデューサーと円城寺さんが遠方ロケから帰れなくなって、事務所も早々に閉めた時、仕方なく俺の家に泊まりに来たのが、すべてのはじまりだった。
 徐々に泊まる頻度が増えて、頻繁になって、日常になって。「泊まる」より、「一緒に暮らす」と言った方が当たり前になった頃には、もう小さい冷蔵庫では足りなくなっていた。風呂にも洗面所にもアイツの物が置かれて、毎朝競うように歯磨きをした。
「お疲れ。ほら、コーヒー」
「……牛乳」
「いれてある。砂糖も」
 帽子や眼鏡、マスクといった変装用品をはずし、上着を脱いだアイツは、俺があらかた片付けた部屋を見渡しながら「フーン」と言った。赤いマグカップを受け取り、二口ほど飲んで、「悪くねー」とこちらを見る。
「それは、どっちだ。コーヒーか、部屋か」
「どっちも」
 二人分のコーヒーの香りが、新居に広がっていく。二人してキッチンに並んで、立ったまま飲むのは、ちょっと滑稽だ。
「……どうだった、今日は」
「楽勝だった」
「結果じゃなくて詳細を聞いてるのに」
 はは、と笑いながら、俺も新居を見渡した。そうだ、カーテンを取り付けようとしてたんだった。一人でやってると、どうにも順番がぐちゃぐちゃになってしまうな。
「風呂、入るだろ。シャンプーとか、用意しといた」
「ああ」
 珍しく大人しい反応が返ってきたので、そんなに撮影に疲れたのかと思い隣を見ようとすると、のし、と銀髪が俺の肩にもたれかかってきた。驚いてコーヒーをこぼしそうになったが、マグカップは二つとも無事だ。
「ど、どうした」
「こっから、はじまってくんだな」
 窓から、さらさらと風が入っては消え、入っては消えしている。空は夕暮れの終りを映していて、ほんのりと世界が暗くなろうとしていた。煌々と明るい部屋の真ん中で、ソファはどっかりとくつろぎ、それなのに俺たちはこうして突っ立っているままだ。おかしくて笑みがこぼれる。
「そうだな。こっから、はじまってくんだ」
 二人分の、コーヒーの香り。二人で暮らしていく、新しい住処。
「ほら、風呂入ってこい」
「ん」
 銀髪が俺の肩からのき、飲み終わったマグカップをシンクに置く。明日は、俺が「おかえり」を言ってもらえるだろうか。
 アイツが風呂場に行ったのを見届けて、俺は大きく伸びをした。世界が夜に変わる前に、早くカーテンをつけてしまわなければならなかった。
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