漣タケ

 吐き気が止まらない。吐くものがないのに、口の中がずっと気持ち悪くて、胃と脳が直接繋がっているような感覚。鼻から息を吸うのも億劫だ。身体の中を搔きまわす血流に頭がぐらぐらする。
 遺伝子が遠いと、悪阻が重いと聞く。本当かどうかわからないけど、確かに俺とアイツじゃ遺伝子は遠いだろう。髪の色も目の色も、出身地も違う。俺の中で二人の遺伝子が戦って繋がって、この腹の中の命に結びついているなら、耐える他ない。枕もとに置いていた紙パックジュースも水のペットボトルも空だ。ゆっくりと起き上がり、視界が回るのが落ち着くまでしばらくそのまま座っていた。
 真っ暗な部屋の中で、冷蔵庫の唸り声だけが聞こえる。一人暮らしをしていた時に使っていたものだから、二人分の食料を入れるには少し小さいのだけれど、もう暫く使い続けよう、と引っ越しの時に相談したのだ。二人とも仕事で家を空けることが多いから、問題ないんじゃないか、そう思っての結論だったし、それは果たして正解だったけれど。これからは三人になるし、俺は一日中家にいることになるし、買い替えた方がいいのかもしれない。出費が重なるなあ。もっと稼がないと、と気合を入れようとして、違う、もっと稼いでもらわないと、と思い直した。俺は当分、身体第一に休むことになっている。
 吐き気が来ないようにおそるおそる深呼吸を繰り返していると、ごそ、と音が聞こえた。アイツが起き上がる音。目を瞑っていてもわかる。俺がなかなか寝付けずにいるから、深夜に何度も起こしてしまって申し訳なく思う。以前は一度眠ったら物音を立てても気付かないほどぐっすり寝るタイプだったのに、近頃の眠りは浅い。不器用ながら、アイツなりに俺のことを心配してくれている。ありがたくて、でもなかなか感謝を表せなくて、借りを作ってばかりいる気持ちになる。いつかまとめて返せたらいいのだけれど、それも出産してからになるだろう。
「寝れねーか」
「悪い、起こして」
「気にすんじゃねー」
 枕もとのジュースとペットボトルが空なのを見つけて、新しい飲みものを持ってきてくれる。こんな優しさ、他の人が知ったらびっくりするだろう。実際、どうなの? と何度も聞かれた。どうなの? 漣、お世話とかしてくれてるの?
 アイツの世間でのイメージは、ガサツで乱暴で俺様で、ツンデレだかツンギレだかの横暴なヤツ。そんな人が優しく寄り添ってくれるだなんて、なかなか想像つかないのだろう。事務所の仲間ですら心配してくれた。「なんかあったらいつでも頼ってくれよな」はほぼ全員に言われたが、「二人が喧嘩したら、問答無用でタケルの味方になるからね」と言ってくれた人も案外多くて、ありがたいやら困惑やらで、俺はうまいこと返答ができなかったっけ。
 いいんだ、誰にもわかられなくても。コイツの不器用な優しさは、俺だけがわかっていれば。パックのぶどうジュースを口に含みながら、こっそりアイツの顔を見あげる。少しやつれたんじゃないか。俺の面倒を見るだけじゃなくて、俺の分まで仕事をこなしているんだから。底知れない体力と気力の持ち主だけど、心労が蓄積しているかもしれない。俺のせいだ。せいだなんて考えちゃいけないのもわかってる。だけど、どうすることもできない俺は、心配することしかかなわない。
「オマエ、寝れてるか」
「移動の車とかで寝てる」
「飯は食ってるか」
「あたりめーだろ」
 オレ様を誰だと思っていやがる、自分の心配だけしてろバーカ。そう言いながら俺の背中をそっと撫でる温かい手に泣きそうになる。不安がないと言ったらウソになる。こんなに苦しい思いをしても、まだ流産の可能性だってあるのだ。小さな小さな命が、懸命に育っている腹を抱きしめた。泣き言なんて言ってられない。コイツに余計心配をかけさせるだけだ。
「……オレ様の前でくらい」
「わかってる」
 漣、と小さく名前を呼んで、肩に顔をうずめた。よく、悪阻でパートナーの匂いがダメになる話をきくれけど、俺にはそれがなくて本当によかった。同じシャンプー、ボディソープ、柔軟剤を使っているはずなのに、なんでこんなに落ち着くんだろう。小さな深呼吸を数回繰り返すうち、どこを探してもいないと思っていた微睡が気まぐれに襲ってくる。
「吐きすぎて疲れてんだろ」
「そうかも知れない」
「寝れる時に寝てろ」
「ん……」
 抱きしめて、頭を撫でてくれる漣の、無骨な手のひらを愛おしく思った。いずれ生まれてくる命を、この手で抱っこする時がくるんだ。きっとそれはしあわせな光景で、その頃に振り返れば今の苦しみも遠い思い出になってるはずで。
「もう少し、このまま」
「寝るまでいる」
 漣の体温にくるまれながら、睡魔に身を委ねる。めまいも、焼け付きそうな胃も、すっかり大人しくなっていた。ライナスの毛布、という言葉を聞いたことがある。俺にとって、漣がそうかもしれない。心の平穏を保つための存在。いつからこんなに大切になったのだろう。
 引っ越しを決めた時のことを思い出す。いつまでたっても俺の家に勝手に上がり込むアイツにいい加減痺れを切らして、じゃあいっそ一緒に住むか、と啖呵を切ったらすんなりそのまま通ったあの日。一緒に暮らしていく誓いはずいぶん簡単であっさりしていて、なのにキーケースはペアのデザインのものを買ったりして。引っ越し祝いの観葉植物は、リビングの隅で元気に葉を揺らしている。
 吐き気と戦うためにトイレ前の廊下に布団を敷いて寝ている今、自分の部屋はほぼ機能していない。漣は普段自室で寝ているが、俺のごそごそいう音や吐く音で起きてしまい、俺のところまで来てくれる。こうなるともう、2DKでなく1LDKを選べばよかったかもしれない。次に引っ越しする時は改めて間取りについて考えよう。その時は子供の自室のことも考慮に入れなければ。
 とりとめない考えが脳をぐるぐるまわり、微睡と混ざり合う。過去と未来の区別がつかなくなって、漣の手が気持ちよくて。俺のまぶたはついにくっついて離れなくなった。安心する匂い。あたたかな体温。冷蔵庫の唸り声と、パックのぶどうジュース。漣にゆっくり身体を横たえられる感覚と、そのあと横に彼が寝転がる感覚がした。
 おやすみ、と心の中で唱えた。腹の中で聞いているかな。ゆっくり、一緒に成長していこうな。二人の遺伝子と、俺の意思と、こいつの優しさを抱きしめて、俺は世界を手放した。
57/60ページ
スキ