虫愛づる君
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ぽとり。
翼
「……?」
私は頭のてっぺんに微かな衝撃を感じて、ふと、上を向いた。
けれど、見上げた先には、三月を迎えたばかりの、よく晴れた春色の空が広がっているだけ。
雨の粒じゃない。
落とし物をしそうな鳥も飛んでいない。
翼
(……気のせいだったのかな)
私は気を取り直して、半歩先を歩く泪さんの背中を追った。
今、私は、久し振りに休みが重なった泪さんと一緒に、彼の家から程近い、小さな公園に向かっている。
窓から見えた綺麗な芝生と早咲きの桜に我慢できなくなって、寝ていた彼を揺り起こしたのだ。
泪さんが手に提げたバッグには、私が朝から手作りした、二人分のお弁当とお茶が入っている。
私の手は、空いている方の泪さんの手と指を絡めて、緩やかに繋がれていた。
時々、私がついて来ている事を確かめるように小さく振り向いて、その手に力を込めてくれる。
そんな彼のさりげない優しさに、つい、赤く染まってしまった頬が緩んだ、
その時。
視界の端で、何かが、もぞりと動いた。
目を凝らした私の、肩から前に垂れていた髪の上で、緑色の、何か、が……
翼
「!」
穂積
「待て、叫ぶな」
悲鳴を上げそうになった私の口を、泪さんの手が素早く塞いだ。
翼
「泪さん、か、髪に、む、さっき、頭に、それが、は、は、這って…!」
泪さんの掌の内側で、私は喚いた。
「それ」が頭から肩まで移動した経緯を想像したら、全身に鳥肌が立ってしまう。
涙がこみ上げて、パニックを起こしそうだった。
穂積
「分かった、翼、落ち着け、落ち着け。今、取ってやるから、動くな」
泪さんに宥められて、私はようやく我にかえった。
震えながら泪さんにしがみつくと、泪さんは、私の肩から、それをそっと自分の指先に移す。
穂積
「ほら、ただの青虫だ。モンシロチョウの子供だよ」
翼
「ど、どっど、どこから、なんで」
私の口を塞いでいた手を離して、泪さんは、今来た道を振り返った。
穂積
「……あそこのベランダかな。たぶん、家庭菜園でキャベツでも育ててるんだろ。そこから、落ちたんだ」
翼
「……」
泪さんは視線を私に戻して、苦笑いした。
私は、泪さんにしがみついたまま、まだバクバクしている胸を押さえて、こわごわ青虫を見る。
穂積
「お前、この間、花とモンシロチョウのついた帽子を『可愛い』って言いながら見てたじゃないか」
翼
「あ、あれは、だって、もう、ちょうちょになってるから。それに、布の、作り物だったし…」
穂積
「まあ、こういうものの好き嫌いは、生理的な問題だからな」
ごにょごにょ言い訳をする私に、責める風にではなくそう言って笑うと、泪さんは歩道に下ろしていたバッグを肩に提げ、私から離れて、再び歩き出した。
泪さんが離れたのは、まだ、青虫を手に乗せたままだから。
そう理由は分かってるけど空いた手は寂しいし、軽い自己嫌悪にも陥るしで、私は足元の小石を蹴りながら、とぼとぼと後をついてゆく。
穂積
「それにしても、もう青虫になってるなんて、早いな。啓蟄っていつだっけ」
翼
「……」
穂積
「おい、翼」
翼
「……」
穂積
「そんなに凹まなくてもいいだろう」
公園に着いて、泪さんは日陰に荷物を置いた。
でも、まだ、青虫は、彼が手に乗せたハンカチの上。
翼
「……その辺の草むらに放してあげれば?」
穂積
「アブラナ科の葉じゃなきゃダメなんだ。農薬も良くない」
翼
「……」
穂積
「あのさ」
翼
「嫌」
穂積
「まだ何も言ってないぞ」
翼
「……」
以前、捜査室の皆や小野瀬さんと行ったキャンプで知った事だけど、泪さんは虫が好きだ。
特にカブトムシやクワガタが。
でもまさか、青虫まで好きだなんて。
泪さんが「青虫を飼おう」と言い出さないうちに、私はバッグからレジャーシートを出し、芝生の上に敷いた。
靴を脱いでその上に上がり、体育座りで膝を抱える。
一旦私の隣に腰を下ろした泪さんが、手枕で横向きに寝そべってから、青虫を見つめて、溜め息をついた。
穂積
「……そんなに気持ち悪いかなあ」
その声は、青虫に向けられたのか、私に向けられたのか。
穂積
「翼は、綺麗な蝶は好きだけど、青虫は嫌いなのか」
泪さんは私に背中を向けたまま。
穂積
「……俺の事も、ちょっと綺麗だから好きなのかな」
耳を澄ましていなければ聞き取れなかったほど、小さな、小さな声だった。
けれど、その声は、私の胸を疼かせ、ある記憶を呼び覚ました。
小野瀬さんが言っていた。
「穂積ってさ、あの見た目だったから、子供の頃は苦労したみたい。低学年のうちは、弟やカブトムシ以外に遊び相手がいなかったんじゃないのかな」
泪さんは、はじめから蝶のように綺麗だったはずだ。
けれど皮肉にも、そのせいで、故郷では理不尽な扱いを受けてきた、らしい。
今の、人気者で悪魔な泪さんからは想像もつかないけれど、本当は人一倍繊細で柔らかい心には、いったいどれほどの傷が残っているのか、彼が語らないから、私には分からない。
でも、幼い彼の孤独を、この、小さな虫たちが慰めてきたのだとしたら。
翼
「……泪さん、青虫、好き?」
穂積
「うん、好きだ。こいつらは頑張ってる」
好きだという理由が泪さんらしくて、つい、噴き出してしまった。
翼
「……ねえ」
泪さんが、振り返る。
翼
「キャベツの苗、買って帰ろうか」
私に向けて見開かれた、その目が輝いた。
がばっ、と身体を起こして、泪さんは、隣にいた私を思い切り抱き締める。
穂積
「翼、ありがとう!」
翼
「そのかわり、虫が食べた残りのキャベツは、泪さんが食べるんだよ?」
平気だと思うけど。
穂積
「食べる食べる。虫も食わないようなキャベツを食うより、ずっといいぞ」
やっぱり予想通りの答えに、私は笑ってしまう。
翼
「お弁当を食べる前に、虫に触った手を洗って来てね」
穂積
「でないと、お前にも触らせてもらえないもんな?」
翼
「泪さん」
穂積
「はーい」
私が軽く睨むと、泪さんは、公園の端にある水道に向かってすっ飛んで行った。
翼
「泪さんって、たまに子供みたいなんだから」
独り言を言いながら何気無く手をついたので、私は、うっかり青虫に触りそうになってしまった。
翼
「き」
慌てて手を引っ込めてついでに悲鳴も飲み込んで、青虫をじっと見つめてみる。
……緑色なのは、葉っぱを食べてるから。
……柔らかそうで、くねくねしてるのは、いまにちょうちょに変わるから……。
穂積
「なっ、よく見れば、だんだん可愛くなってくるだろ?」
いつの間にか戻って来た泪さんに背中から抱き締められて、私は唇を尖らせた。
翼
「……なんだか、これからは泪さんに『好き』とか『可愛い』って言われるたびに、青虫の事を思い出して、ちょっと複雑な心境になっちゃうかも……」
後ろにいる彼に体重を預けると、泪さんはくすくす笑ってから、肩越しに、私の頬に優しいキスをくれた。
穂積
「そういえばお前、蝶の事を『ちょうちょ』って言うのな。あれ、可愛い」
翼
「そ、そう?」
穂積
「ああ」
ちゅ、ともう一度頬にキス。
穂積
「翼、好きだぞ」
……複雑だけど、やっぱり嬉しい。
照れ隠しにお弁当の包みを解いて広げると、さっそく泪さんが、私に、箸の先に挟んだ玉子焼きを差し出してくれる。
穂積
「ほら、あーん」
……まあ、いいか。
泪さんが胸に抱いてる、たくさんの「可愛い」や「大好き」。
きっと私もその中にいる、と思える事が、幸せ。
私もいつの日か、クワガタムシやカブトムシ、青虫とだって、仲良くなれるに違いない。
翼
「あーん」
ぱくん、と口に入れた玉子焼きは、ちょうどよく塩味の効いた、春のように甘い味がした。
~END~