いつか聞かせて
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本家番外編『強引で甘い夜』の少し前のお話。
~翼vision~
翼
「……」
来ちゃった……。
午前八時。
本日は、有給休暇を消化する為の平日休み。
私は、とあるマンションの一室の扉の前に立っていた。
ここが、室長の、部屋……。
入る前から、たった一人でドキドキしている理由は二つ。
ひとつは、昨日、私が「お部屋に行ってみたい」と言った時から、室長が何度も「汚い部屋だぞ」と念を押してきたから。
もうひとつは……今夜、お泊まりになっちゃうのかな……なんて、考えているから。
室長は合鍵をくれた時、「部屋に来るなら覚悟を決めて来いよ」と言った。
室長は大人の男の人で、だから、恋人という関係になるというのはその……そういう事なのだと、いくら鈍い私でも分かる。
私は、今まで、男の人の部屋に泊まった経験がない。
父が素行や門限に厳しかったからだけど、母からも、「一生を添い遂げてくれる、本当に好きな人にしか、身体を許しては駄目」と言われて育った。
室長は私を、掌中の珠のように大切にしてくれる。仕事では厳しいけれど、いつも誠実で、とても優しい。
室長に髪を撫でてもらうだけで幸せな気持ちになれるのは、きっと、私が室長を好きだから。
だから、室長になら……って、覚悟して来た、つもりだったのだけれど。
……実は、まだ、覚悟が決まりません……。
翼
「……だって……初めてだもん……」
マンションの廊下で、耳まで赤くなりながらぶつぶつ呟いているのは我ながら挙動不審なので、とりあえず気を落ち着けて、合鍵を使ってみる事にした。
カチャ、と微かな音がして、ロックが外れる。
翼
「お邪魔しまーす……」
私はおそるおそる扉を開けて、中に入った。
広い玄関。
そして……
翼
「…………」
目の前に広がったのは、床が見えないほど散らかった衣類と、本や新聞。
翼
「……泥棒?」
落ち着いて、私。
よく考えたら、「散らかってる」って、室長が何度も言っていたじゃない。
つまりこれが、この部屋の普通の状況。
翼
「……室長って、普段、職場では完璧に見えるのに」
そう。捜査室の室長の机は、引き出しの中まできちんと片付いている。
スーツもハンカチも毎日替わっているし、特に靴はきれい。
でも、考えてみれば、室長はあの忙しさだ。家に帰れば、もう寝る事しか考えられないのかもしれない。
私は靴を脱いで上がりながら、辺りを見渡した。
積もった埃、散乱するワイシャツやTシャツ、スポーツ新聞、法律関係の難しいタイトルがついた本の数々。
翼
「……」
リビング、寝室、バスルーム、キッチン……室内を巡回しながら順に窓を開けて空気を入れ換えていくうちに、だんだん、使命感が湧いてきた。
こんな事もあろうかと持参したエプロンを付け、髪をヘアゴムとバンダナで纏める。
掃除は上からが基本だけど、この家は床から。
私は室長が脱ぎ散らかしたであろう衣類を、一枚一枚拾い始めた。
お昼に一度、室長から携帯に電話が入った。
私は窓を拭いていた手を止めて、急いで電話に出た。
穂積
『家にいるのか?』
室長が、穏やかな声で尋ねてきた。周りに誰もいないのか、男言葉だ。
翼
「はい。お掃除をしています」
穂積
『そうか。休みなのに、すまん』
申し訳なさそうな声。
顔が見えないぶん、声に込められた室長の気持ちが、ダイレクトに伝わって来る。
翼
「あの、なるべく物を動かさないようにしていますけど、少し、整頓していいですか?」
穂積
『構わない。任せる』
室長が、少し笑ったのが分かった。
穂積
『出来るだけ、早く帰る』
翼
「はい。夕飯の仕度、しておきますから」
穂積
『ありがとう』
ありがとう……ありがとう……電話が切れた後も、頭の中で室長の声がリフレインしていた。
ぶっきらぼうな言葉ばかりだけど、室長はそのひとつひとつに想いを込めて伝えてくれる。
私は幸せを噛み締めながら(正確には、緩みっぱなしの顔を引き締めながら)、洗濯物を干しに屋上へ昇った。
すっかり日が暮れてから、インターフォンが鳴った。
私は乾いた洗濯物を畳む手を止めて、扉に向かった。
翼
「はい」
穂積
「俺だ」
室長が帰って来た!
私は弾む胸をそのままに、慌てて鍵を外す。
扉が開いて、濃紺のスーツの室長が、姿を現した。
翼
「お帰りなさい!」
穂積
「ただいま」
室長は私を見ると少しだけ頬を染めて、顔を綻ばせた。
穂積
「……帰ったらお前がいるの、いいな」
無邪気に言われて、私の方が真っ赤になってしまう。
室長は靴を脱いで上がると、部屋の中を見渡して、私の頭を撫でた。
穂積
「掃除、大変だったろ。ありがとう」
微笑んで見つめられるだけで、掃除や洗濯の苦労なんて吹き飛んでしまう。
翼
「お食事、出来てます」
穂積
「本当に、ありがとう」
室長は私に向かって、拝むように両手を合わせた。
私の手料理を、室長は残さずに食べてくれた。
美味い美味いと言ってくれるので嬉しいし、ホッとした。
こんなにきれいに平らげてくれるなら、頑張って作った甲斐があったな。
室長がシャワーを浴びている間に食器を洗って片付けて、私は洗濯物を畳む仕事に戻った。
穂積
「シャワー空いたぞ」
やがて、タオルで髪を拭きながら、室長が出て来た。
スウェットパンツだけで、上半身は裸だ。
私は目のやり場に困って、必要以上に洗濯物に集中する。
幸い、室長は汗が引くと、すぐにTシャツを着てくれた。
それなのに、私はさっき見た逞しい身体を意識してしまって、顔が上げられない。
穂積
「櫻井」
翼
「はっ、はいいっ」
声が裏返ってしまった。
室長は、床に正座をしている私の隣に、笑いながら腰を下ろした。
私は出来るだけ平静を装っているけれど、シャンプーの香りと体温が伝わって来て、落ち着かない。
穂積
「お前、さっきから、同じ洗濯物を広げたり畳んだりしてる」
翼
「ええっ?あっ……」
本当だ。
うう、恥ずかしい。
穂積
「櫻井」
室長の顔が近付いて、私の耳元で留まった。
穂積
「俺が、怖いか?」
翼
「……」
考えて、私は首を横に振った。
翼
「怖く、ありません」
室長の唇が、ふわりと私の頬に触れる。
私の胸が、トクンと鳴った。
穂積
「良かった」
室長は隣から、私の肩を抱いた。
抱き寄せられて、私は、室長の胸に頭を預ける。
そっと見上げてみると、ちゃんと目が合った。
淡い色の長い睫毛、そして、私を見つめている、碧色の双眸。整った顔立ち。
本当に、きれいな人……。
翼
「あの、室長」
穂積
「ん?」
私の髪の中から、室長が返事をした。
翼
「私、室長に、ずっと聞きたいと思っていた事があったんです」
穂積
「何だ」
翼
「……室長は、私を、どこで見つけてくれたんですか?」
少し身体が離れて、室長が、私の顔を覗き込んだ。
翼
「初めてお会いした時、『久しぶり』って」
穂積
「……ああ、それか」
室長の掌が、私の頭を撫でる。
翼
「室長は、どうして、私を選んでくれたんですか……?」
私は、室長の顔を見つめた。
穂積
「俺は、警察に入る前から、お前の事を知っていた。そして、数年前、初めてお前を意識した」
分かったようで分からない。
上目遣いで睨んでみるが、室長はびくともしない。
穂積
「お前を選んだのは、誰よりも、お前を好きになったからだ」
ドキン。
翼
「室長……」
室長は、一応、私の質問に答えてくれた。
でも、結局、何も分からないまま。
胸の中で室長の言葉を反芻していると、室長が笑ったのが分かった。
穂積
「そんな顔をするな。いつか、ゆっくり話してやる」
翼
「いつかって、いつですか……」
子供扱いではぐらかされたような気持ちになって、私はちょっとだけ悲しくなる。
すると頬に大きな手が触れて 、室長の顔が近付いたと思った瞬間、唇を塞がれた。
舌を絡め取られ、息が止まる。
目の前数㎝の距離で室長の瞼がうっすらと開き、私と目が合うと、また、ゆったりと閉じられた。
つられるように目を閉じると、意識が研ぎ澄まされて、頭の中が室長で一杯になる。
繰り返される優しいキスに、気が遠くなりそう。
室長が角度を変えるたび、身体が熱くなって、震えた。
唇と唇の隙間で、室長が囁く。
穂積
「一緒の夜を過ごせるようになったら、寝物語に、な」
急に、胸が切なくなった。
それは、今夜は一緒に過ごせない、という事?
どうして?
穂積
「もっと、俺を好きになれ」
翼
「室長、私、室長が好きです」
穂積
「知ってる」
唇が重なり、離れた。
穂積
「だが、震えてる。俺は、そんな女を抱けない」
頬を撫でられて、私はハッとした。
同時に、涙が込み上げてくる。
翼
「……ごめんなさい……」
室長の腕が、私を抱き寄せた。
穂積
「翼」
あ。
名前……。
穂積
「謝らなくていい。お前が俺を受け入れる覚悟が出来たと感じたら、俺は、有無を言わさずお前を抱く」
目頭が熱くなる。
見つめられて、私は、滲んだ涙を拭った。
翼
「はい、しつちょ……」
穂積
「泪、だ」
ドキン、と胸が高鳴った。
穂積
「名前で呼べ」
翼
「る……泪、さん」
穂積
「いい子だ」
唇に、触れるだけのキス。
穂積
「プライベートの時間に『室長』じゃ、萎えるからな」
翼
「なえ……」
赤くなる私に、室長は笑いながら、立ち上がった。
穂積
「送って行く」
翼
「あっ、はい。でも、まだ、畳むのが途中で」
穂積
「次に来た時でいい。そっちは触らないようにするから」
次……
私、また来てもいいんだ……
穂積
「どうした、にやけて」
翼
「えっ!にやけてましたか?い、いえ、何でもないです」
私が頬を押さえると、室長は意地悪な顔をした。
穂積
「ああ、次回は何をされるんだろう、って、想像しちゃったか?」
く、悔しい。
にやけているのはあなたの方です!
穂積
「翼」
翼
「何ですかっ」
恥ずかしいのを誤魔化すために、少しだけきつい返事になってしまった。
穂積
「好きだよ」
翼
「!」
背中から抱き締められて、頭の中が真っ白になる。
穂積
「これから先、何があっても、俺から離れるな」
私を抱いた手に、力がこもった。
穂積
「俺も、離さない」
翼
「はい……泪さん」
私は頷いてから振り返り、深いキスを受け止めた。
意地悪だけど……好き。
離さないで。
私も離れたくないから。
~END~