Tokyo☆アブナイ☆week
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
~翼vision~
しまった、と思った時には手遅れだった。
至近距離からスプレーを噴射された私は、OCガスを顔面にまともに浴び、咄嗟に息を止めたものの、その後したたかに吸い込んでしまった。
目が痛い。涙が止まらない。
鼻も口も肌も。
呼吸するたび、肺まで焼けるのではないかという息苦しさと、激しい嘔吐感が襲ってくる。
身体中が熱くて、熱くて痛い。
私は、手探りでどうにかポケットからハンカチを取り出し、顔を押さえてうずくまった。
室長に受けた注意が蘇る。
『絶対に油断するな』
言われていたのに。
スプレーの効果とは違う涙が込み上げてくる。
でも、泣いている場合じゃない。
犯人は?あの女は?
小松原
「傷害の現行犯で、逮捕する!」
小松原係長の声に、私は、全身の力が抜けるほど安堵した。
女
「ちくしょうっ」
小松原
「暴れるな!お前たち、この女を署に連行しろ!」
小松原係長の声に、五係の男性二人の「了解」という声が応えた。
どの声も、ガスを吸ったらしく、苦しそうに掠れている。
抵抗する女を捕縛する気配と怒声、交錯する男女の靴音と、興奮して悪態をつく甲高い声。
それらが混ざりあって室内が騒然とする中、小松原係長が私の元に来てくれた。
小松原
「櫻井!大丈夫か、櫻井!」
私はただ頷く。咳が止まらない。声を出そうとするだけで吐きそうだ。
翼
「…………かかり、……ちょ、……す、……すみま」
ようやく絞り出した声は嗄れていて、自分のものとは思えない。
小松原
「喋るな。救護を呼ぶからな」
自分も咳き込みながら、小松原係長が背中を擦ってくれる。
女を連行する声と足音が遠ざかっていくのと入れ代わりに、聞き覚えのある声と、新しい複数の靴音が早足で近付いて来た。
小野瀬の声
「……全員、展開して、壁、床、人体、全てのOCガスの飛散状況を記録するとともに残留成分の除去作業を始めて。……くれぐれも、会場内の観客には異変を悟られないようにね」
処理班の声
「了解!」
扉が開き、声が近くなった。
小野瀬
「係長、中和剤と鑑識の処理班が到着しました。既に作業を始めています」
小松原
「了解した。それより、小野瀬。櫻井がスプレーを浴びた。処置を頼む!」
私の背中を擦り続けながら、小松原係長が小野瀬さんを呼んでくれた。
小野瀬さんもすぐそれに応じて私の元に駆け寄り、手を握ってくれる。
小野瀬
「櫻井さん、苦しいよね。よく、パニックに陥らずに我慢していたね。偉いよ」
翼
「しつちょ、が」
小野瀬
「え?」
小松原
「穂積が、何だ?」
翼
「やられた、ら、うごく、な、目をひらく、な、こするな、助けを、まて、て」
小野瀬
「……そう」
小野瀬さんのものだと思える手が、私の目に、濡れたハンカチのようなものを当てた。
小野瀬
「中和剤だよ。両手で押さえててくれる?まだ目は開かないでね」
私は黙って頷いた。
小松原
「……櫻井、私は、散布されたガスの処理と、警護の指揮に戻る。きちんと手当てを受けろ、いいな」
翼
「はい。……かかりちょ、すみません、でした」
知らない手が、私の肩に乗せられた。
小松原
「被害は最小限で済んだんだ。お前はよくやった」
それが小松原係長の手だと気付いて、私はまた泣きたくなってしまった。
翼
「ありがと、……ござい、ます」
小松原
「穂積への報告は、私からしておく。この後は、ひとまず、小野瀬の指示に従え」
翼
「……はい」
もう一度、ぽんぽんと私の肩を叩いてから、小松原係長の手と靴音は去って行った。
小野瀬
「従業員の使うシャワールームがあるそうだから、そこを借りよう」
私が手にしていた中和剤のシートを取り、閉じたままでいる目の周りを丁寧に拭いてくれながら、小野瀬さんが優しく言った。
翼
「はい」
小野瀬
「少し遠いから、抱いて行くね」
翼
「……え?!」
吐息がかかるほど近くからの小野瀬さんの言葉に、私はびっくりして、また咳き込んでしまった。
翼
「……あ、歩きます!……おの、小野瀬さんに、……そんな……」
小野瀬
「おや。きみをお姫様抱っこしていいのは穂積だけなの?」
小野瀬さんが、少しだけ意地悪っぽく言って笑ったのが分かった。
小野瀬
「シャワールームは別の階だし、きみはまだ歩ける状態じゃない。俺が連れて行くのが一番安全なんだけどな」
翼
「で、でも、……小野瀬、さん、には、まだ、他にも、用事が……」
小野瀬さんの指が、私の鼻先をちょんとつついた。
小野瀬
「小松原係長の説明を聞かなかった?きみは今、俺の指示に従うように言われてるよね?」
……確かに。でも……。
ふ、と小野瀬さんが笑った。
小野瀬
「心配しないで。穂積にも承認をもらってある。勝手に持ち場を離れて、明智くんに叱られるのはもう懲りたからね」
室長の名前を聞いて、また胸が苦しくなる。
けれど、まさしく一番気になっていた問題の答えを小野瀬さんがくれた事に、私はほっとした。
翼
「……それなら……。でも、モデルの、仕事は……?」
小野瀬
「茉莉花さんの登場はあと二回。如月くん、穂積の担当だ。つまり、今日はもう、俺の出番は終わり」
翼
「……そう、なんですか」
「そう、なんです」と私を真似て微笑んでから、小野瀬さんは、私の左肩と両膝の裏に腕を入れた。
小野瀬
「失礼」
一息で軽々と横抱きに持ち上げられて、私は少し驚く。
小野瀬さんて、室長に比べたら華奢だと思っていたけど、力があるんだ。やっぱり男の人なんだな。
抵抗しては却って迷惑になると思い、私はじっとしている事にした。
小野瀬
「俺の首に腕をまわして、掴まって。そう、しっかりとね」
動いたはずみに私の髪についた匂いを吸ったのか、小野瀬さんも軽く咳き込んだ。
翼
「……すみま、せん」
小野瀬
「いや。……小松原係長も言ったけど、きみ、よくやったよ」
歩き出しながら、小野瀬さんはそう言ってくれた。
小野瀬
「こんなものを、会場で撒かれなくて本当に良かった」
シャワールームに着くと、小野瀬さんは、中和剤のシートで丁寧に私の顔や首や手、それから、髪に付いた催涙成分をも拭き取ってくれた。
上半身はまだ熱を持ってひりひりしているけれど、小野瀬さんの処置のおかげで、今以上に痛みが広がってゆく気配は無さそうだ。
中和剤はひどく甘い匂いがして、気持ちのよいものではなかった。
小野瀬
「潰したハバネロを擦り付けられた顔に、砂糖水を塗るようなものだよ」
中和剤の効果について、小野瀬さんはそんな言い方をして苦笑いした。
その中和剤を、今度は濡らした清潔なタオルで拭き取る。
それも終わると、小野瀬さんは、私に顔を近付けて囁いた。
小野瀬
「目を開いてみて?そっと、……ね」
私は言われた通りに、少しずつ瞼を開いてみた。
僅かに目の縁に残る中和剤を自分で拭き取って、まばたきをする。
目に映った景色は、光による刺激を受けないように気を遣ってくれているのだろう、薄暗い脱衣所。
そして、びっくりするほど近くに、小野瀬さんの綺麗な顔があった。
小野瀬
「大丈夫?」
紅い唇。
小野瀬さんは、まだ、女装のままだった。
栗色の長い髪に、しっかりメイク。霜降りグレーのワンピース。
その姿で、私と同じように、脱衣所の床に膝をついてくれている。
翼
「小野瀬、さん……」
小野瀬
「着替える時間も惜しかったからね」
小野瀬さんは一瞬だけ恥ずかしそうな顔をしたけれど、すぐに、いつもの笑顔になった。
小野瀬
「さて、シャワーだけど。いきなり頭からかぶると、OCガスの成分が肌を伝わって、範囲を広げてしまう。まずは、身体についた成分を、濡らしたタオルで綺麗に拭き取って」
小野瀬さんは、傍らに積んである備え付けのタオルを指差した。
小野瀬
「それからじゅうぶんに洗い流す。ただし、熱いお湯だと毛穴が開いて、OC成分の刺激がぶり返してしまうからね。辛くない程度に、低温で浴びること」
翼
「はい」
私が頷いても、小野瀬さんはちょっと首を傾げた。
小野瀬
「……何だか心配だな。きみさえよければ、俺が洗ってあげるけど?」
翼
「はいっ?!」
小野瀬
「隅々まで……綺麗にしてあげるよ?」
私はびっくりして、ぶんぶんと首を横に振った。
翼
「だ、だ、大丈夫です!」
小野瀬
「その元気なら大丈夫かな」
小野瀬さんは声を立てて笑った。
小野瀬
「これ、着替え。ここへ来る前に、下の階で買ってきた」
紙袋を差し出されて、私はまたびっくりする。
翼
「え、えっ?!」
小野瀬
「選ぶ時間はなかったから、店の人にお任せで、だけどね。上から下まで一揃い入ってるはずだよ」
翼
「で、でもあの」
小野瀬
「趣味に合わないかもしれないけど、ごめんね。今日は我慢して」
翼
「我慢だなんて」
あんなにすぐに助けに来てくれて、そのうえ、着替えの事まで考えてくれていたなんて。
小野瀬さんはさっきもそうしたように、私の鼻先をつん、とつついた。
小野瀬
「俺はこの扉の外で待ってるよ。シャワーが済んで着替えたら、会場に戻ろう。みんな心配してるはずだから」
小野瀬さんの穏やかな声に、脳裏に浮かんだ会場のあの雰囲気に、私はようやく、少しずつだけど、自分が落ち着きを取り戻していくのを感じた。