人生最悪の瞬間
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
~翼vision~
その日私は、朝からついていなかった。
午前3時に関東地方で震度2を記録した微震に揺り起こされ、
その時に癖で止めてしまったせいで目覚ましのアラームがいつもの起床時間に鳴らず、
寝坊して乗り込んだ1本遅い電車で痴漢に遭い、
現行犯で逮捕したのはいいけれど次の駅で降りて駅務管区に引き渡す羽目になってさらに遅れ、
遅刻するかもしれないと捜査室に連絡を入れれば明智さんへの説明の途中で携帯の電池が切れてしまい、
駅を出て走り出したところでストッキングが伝線している事に気付いたものの取り替える時間も場所も無く、
行く先行く先で歩行者用信号機が赤になってちっとも進まず、横断歩道の前で空しく足踏みをするばかり。
おまけに小雨が降ってくる。
やっと警視庁に到着したと思ったら、ちょうど外勤に向かう刑事部の精鋭の皆さんと出くわしてしまって、
「なんだ櫻井。下っ端のくせにギリギリ出勤か?」なんて嫌味を言われて、
しかも「ストッキング伝線してるぞ」なんて口笛を吹かれて。
悔し涙を堪えて、前も見ないでエレベーターに乗り込んだものだから、
思いきり、高そうな革靴を履いた男性の足を踏んでしまった。
そして、人生最悪の瞬間が訪れたのだ。
翼
「す、すすすすみません!」
慌てて足をどかし、とにかく謝らなくてはと勢いよく頭を下げた、その瞬間。
ブツッ、という音がしたかと思うと、足元に、灰色のボタンが勢いよく転がった。
見覚えがあるのもそのはず。
そのボタンは、私の……
スカートの、
ウエストのボタン………
翼
「…………!」
何が起きたのかは一瞬で分かった。
その一瞬の間に、私の頭からはサーッと血の気が引いた。
確かに、最近ちょっと太ったかな、とは思っていたけど。
まさか、逃げ場の無いエレベーターの中で、スカートがはち切れる所を見られるなんて!
耳の奥から、爆弾の秒読みのように自分の鼓動が聞こえてくる。
願わくは、どうか、相手がこの状況に気付いていませんように……。
頭の中でお念仏を唱えながらそろそろと視線を上げていく私の目に入ってきたのは、濃紺のスーツ、しかも三つ揃い、一流ブランドのネクタイ、そして……
穂積室長の、満面の笑顔。
翼
「キャーーーーーーー!!!」
よりによって!
一番見られたくない人に!
人生最大の失態を……見られた!
さっき引いた血が、今度は逆流して駆け昇る。
もう、顔から火が出そう。
翼
「し、し、し、しつ」
穂積
「…………ぷ」
室長が、堪えきれない、というように噴き出した。
穂積
「ぶ、あっはっはっはっはっはっ!」
大笑いしながら、室長はエレベーターの行き先階を押す。
扉が閉まり、エレベーターが上昇を始めた。
室長はまだ、お腹を抱えて笑っている。
穂積
「あっはっはっはっ、あー……可笑しい」
室長は笑いすぎの涙を指先で拭いながら、まだ、くっくっと喉を鳴らしていた。
穂積
「アンタって、ホント、面白い」
長身を屈めて、室長がボタンを拾ってくれる。
はい、と手渡されて、恥ずかしいやら情けないやら。
翼
「…………ありがとうございます…………」
じわっ、と涙が湧いた。
そう言えば私、ストッキング伝線してるし。
駅から走って来た上に雨に当たったから、髪も、お化粧もぐしゃぐしゃだし。
…………最悪。
穂積
「とりあえず、これでどう?」
翼
「へ?」
ばさり、という音がして、室長が私の腰に巻いてくれたのは、ご自身のスーツのジャケット。
翼
「!」
腰から下に巻きつけて、袖をベルト代わりに縛れば、それはあっという間にスカートをカバーする。
ついでにストッキングの伝線も……。
でも、こんな事をしたら、スーツが皺になっちゃうかも!
翼
「室長……!」
穂積
「笑ってごめんね。でも、嬉しかったのよ」
言いながら室長は私にハンカチを差し出し、大きな手で髪を梳いてくれた。
穂積
「ワタシの部下になってから太ったなんて、頼もしいじゃない?」
翼
「……!……」
穂積
「それだけ、捜査室にも慣れてきた、って事よね?」
室長が目を細めた。
穂積
「良かったわ」
翼
「…………」
穂積
「今朝も痴漢を捕まえたそうね。アンタって、本当に、凄いわ」
捜査室のある階にエレベーターが停まり、扉が開く。
ベスト姿の室長が扉を手で押さえて、私を振り返った。
穂積
「この調子なら、もっとしごいても大丈夫かしら?」
翼
「……はい!」
室長が開けてくれている扉をくぐって外へ飛び出し、向き直った私は頭を下げた。
翼
「よろしくお願いします!」
穂積
「そんなにお辞儀すると、今度はファスナーが壊れるわよ」
この人に出会えて良かった。
この人の部下になれて、良かった。
まだ私は未熟すぎて、好きだと打ち明ける事なんか出来ないけれど。
穂積
「すぐに痩せさせてあげるから、覚悟しなさい」
笑いながら見せてくれる、その背中について行こう。
室長と一緒なら、きっと、どんな瞬間も輝く時間に変わる。
~END~