泪さんの犬
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~瞳vision~
隠れても走っても追ってきて、その痩せこけた子犬は兄の足にまとわりついて離れない。
兄は困ってしまって、とりあえず、親を探してそこらじゅうを歩いたらしいです。
すると、路地の隅に、マジックで『だれか拾ってください』と書かれた段ボール箱を見つけたそうなんです。
一方、家では、兄が下校時刻を過ぎても帰って来ないので、心配していました。
兄は入学した頃から容姿が原因でいじめを受け始めていて、この頃には、度々怪我をして帰って来るようになっていましたから、母は特に心配したのだと思います。
母が探しに行くと言うので、僕も付いて行きました。
幸い、兄はすぐに見つかりました。
薄暗くなった通学路の途中で、道端の段ボール箱の隣に座って、震えていたからです。
母が駆け寄った時、兄の上着は、寒くないようにと子犬の身体に掛けられていました。
泪
『俺より、こいつの方が小さくて弱い』
それは、当時の兄の口癖でした。
僕が身体が弱かったので、両親がいつも兄にそう言い聞かせていたんでしょうね。
泪
『でも俺もまだ小さいから、誰かが拾ってくれるまで待つつもりだった』
兄はその時そう言いました。
それで、母が根負けして、うちで飼う事に決めて、兄と子犬を連れて帰ったんです。
兄と僕は大喜びで、一緒にお風呂に入ったり、夕飯の残りを食べさせたり、二人と一匹で転げ回って遊んで、その日は同じ布団で寝たりしました。
兄は父の本を広げて、子犬の飼い方を熱心に読んでましたよ。
翌日は眠い目を擦って学校に行き、帰って来るとまた庭で子犬と遊んでいました。
すると、通りかかった上級生の数人が、可愛い犬だから欲しいと言い出したんです。
僕はそいつらがニヤニヤしているのが怖くて震えていましたが、兄は、『自分が飼うんだからあげない』と頑張っていました。
そのうち『じゃあ、お前も来い』と言って、身体の大きい子たちが、じたばた抵抗する兄ごと子犬を抱えて行ってしまったんです。
僕はびっくりして、すぐ、家の中にいた母を呼んで、後を追いました。
近所を探すと、公園の鉄棒に兄が縛られていました。
夕暮れで、周りには、もうさっきの上級生たちもいません。
兄はかなりひどく殴られたらしくあちこち傷だらけで、何かわあわあ叫んでいました。
縛られていた紐をほどくと、兄はすっ飛んで行って、近くの川に跳び込みました。
びっくりしましたね。
川と言っても、公園のフェンスの脇にある、幅も深さも2メートルぐらいのコンクリートの用水路です。
水はくるぶしまでの高さでちょろちょろ流れているだけなので溺れる事はありませんが、底が滑るので、子供は入るのを禁止されていました。
兄はその中に飛び降りて、川下に向かってじゃぶじゃぶ歩き始めたんです。
あの時は、兄が錯乱したかと思って怖かったですけど。
上から見ていた僕と母にも、やがて、兄の目的が見えて来ました。
さっきまで兄が着ていたシャツが、丸められて、水に半分漬かって落ちていたからです。
上級生たちが、意地悪でそこに放り込んだのだとすぐに分かりました。
危ないし汚いので、母はもう拾うのを諦めて戻って来るよう、しきりに声を掛けていました。
でも、兄はずぶ濡れになりながら進んで、そのシャツを掴んで拾い上げました。
その瞬間、僕も母も、ようやく気付いたんです。
白いはずのシャツが、泥汚れではなく真っ赤に染まっている事に。
シャツの中に、何かが包まれている事に。
兄が、声も出ないほど泣き叫んでいる事に。
子犬の亡骸は、父が庭に埋めて線香を立ててくれました。
兄は、その夜から高い熱を出しました。
寒い中、傷だらけの身体で泥水に入ったのが原因でしたが、夜通しうなされていたのは、おそらく熱のせいばかりではなかったでしょう。
数日後、熱が下がった時、兄は変わっていました。
いつもニコニコしていた顔から表情が消え、学校でも家でもほとんど口を利かず、授業を終えて帰ってくると、子犬の墓の前で何時間もしゃがんでいるようになってしまったんです。
日曜日の朝、目を覚ました僕は、相変わらず庭の隅で膝を抱えていた兄の隣に、父が並んで座っているのを見ました。
父は長いこと黙って兄の傍らにいましたが、そのうち、ぽつりと『可哀想だったな』と呟きました。
その言葉が父の独り言だったのか、兄に向けられたのか、死んだ犬の事を言ったのか、今でも僕には分かりません。
でも、兄の返事ははっきり覚えています。
泪
『俺が死なせた』
兄の声は氷のようでした。
泪
『あいつら、犬なんか欲しくなかったんだ。俺の犬だったから、俺が泣くのが面白いから、だから殺した』
父は黙って聞いていました。
泪
『笑いながらシャツにくるんで、サッカーボールみたいに蹴飛ばしてキャンキャン鳴かせて、最後は川に蹴り込んだ』
兄の声が震えていました。
泪
『俺、止められなかった』
痣だらけの頬にぽろぽろ涙を溢しながら、兄は子犬の墓を見つめていました。
泪
『俺は弱い。何も守れない』
父
『泪』
泪
『俺のせいで、また、こいつみたいな目にあわせるなら、もう、犬は飼わない。友達も作らない。何も欲しがらない』
父はしばらく兄の髪を撫でていましたが、やがて、兄の顔を見ないで話を始めました。
父
『……それでもいつか、どうしても欲しいものが出来る。守りたいものが出来る。その時の為に、大きくなれ。賢くなれ。強くなれ』
泪
『……?……』
僕たちの父親は、ごく普通の男です。
今でも、真面目で、穏やかで、母にめっぽう弱くて、そして、無駄な事を言わない父親は、その時も、静かに兄の肩を抱きました。
父
『負けるな、泪』
泪
『……』
父
『お前は、きっと、強くなる』
泪
『……』
兄はごしごし拳で涙を拭きながら、父の言葉を聞いていました。
僕はその時を最後に、兄が泣くのを見た事がありません。