ホワイトデーの夜に
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私が立ち尽くしていたので、如月さんが掛け寄ってきてくれた。
如月
「翼ちゃん」
翼
「如月さん……あの、私、謝ろうと思って……室長は?」
如月
「室長なら、藤守さんと出掛けたよ。待ち合わせだって」
待ち合わせ?
こんな、朝早くから?
如月
「なんか、相手の都合だってさ。ワンコを連れてったから、もしかして、里親が見つかったのかな?」
そんなはずない。
たとえそうなら、必ず、私に相談してくれるはずだもの。
翼
「……あ」
私は、さっきの泪さんの言葉を思い出していた。
穂積
『おはよう、櫻井。その犬の事だけど』
翼
『あげませんから』
穂積
『え?』
翼
『あの女の人たちには、あげませんから!』
穂積
『……?お前、何を』
泪さんはあの時、仔犬の事で何か言おうとしていた。
私が聞かなかったんだ。
明智
「櫻井」
ことり、と音がして、私の机に、ハーブティーのカップが載せられた。
私は明智さんに促されて席につき、カップを手にして、深呼吸した。
翼
「……」
明智
「もしも里親が見つかったのなら、良かったじゃないか」
翼
「……明智さん……」
明智
「仔犬は可愛いからな。つい拾っちゃうんだが、素人にはまず育てられない。あんな赤ん坊なら、なおさらだ」
私はこくりとハーブティーを口に含み、香りとともに飲み込んだ。
明智
「うちの姉たちなんか、子供の頃、いくら叱っても拾ってきてな。俺は、裏庭に何本アイスの棒で墓碑を立てさせられたか分からない」
如月
「俺も何度か連れ帰った事ありますよ。でも、うち、寿司屋だからさ。駄目だって親父に言われて、飼ってもらえなかった」
小笠原
「イギリスでは野良犬を見た事が無いね。保護センターが機能していて、ペットショップより盛況だ。日本人のペットの飼い方は無責任だよ」
三人の話は、ハーブの温もりとともに、少しずつ、私に冷静な判断力を取り戻させてくれた。
……私も、無責任な人間の一人になってしまうところだった。
明智さんが、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
顔を上げると、如月さんと小笠原さんも私を見ている。
私は微笑んで、みんなに頭を下げた。
明智
「さ、仕事だ。櫻井は、引き続き俺と聞き込み。如月は藤守の帰りを待って三課の捜査に協力。小笠原は証拠品の分析だ」
翼・如月・小笠原
「了解!」
夕方まで聞き込みで歩き回って、私と明智さんは捜査室に帰ってきた。
仕事中は、もう、出来るだけ、仔犬の事は考えないようにしていた。
保健所に連れて行ったにしても、里親に託したにしても、きっと、泪さんが、一番いい方法を選んでくれると信じる事にしたからだ。
けれど、泪さんの事は、考えずにはいられない。
私は泪さんを傷付けた。
許してもらえなかったら、嫌われたら、別れるなんて言われたら……
どうしても暗い方向へ向かってしまう思考からなかなか抜け出せないまま、私は、捜査室で今日の報告書を作っていた。
藤守
「たっだいまー」
如月
「うひゃー、中はあったかーい!」
五時を回った頃、藤守さんと如月さんが帰ってきた。
翼
「藤守さん!」
藤守
「おう櫻井、尻尾を振ってお出迎えとは可愛いのう。ま、理由は分かっとるけど」
扉を開けて入って来るなり飛び付いた私に、藤守さんは苦笑いした。
翼
「犬は?あの仔犬はどうなりました?」
藤守さんは、長身を屈めて、私の顔の正面で、にかっと笑った。
藤守
「安心せえ。飼ってくれる人が見つかったんや。室長が、昨晩のうちに、その人と連絡を取り合っててな。今朝会って話をして、そのまま引き取ってもらった」
私はびっくりした。
そんなに話が早いとは思ってなかったからだ。
藤守
「お前もよぉ知ってる人のところやで。何なら、今夜、一緒に行ってみよか?」
翼
「えっ?えっ?」
展開の速さについていけない私がうろたえている間に、如月さんや小笠原さん、明智さんが話に加わった。
そして、何が何だか分からないうちに、全員で今夜、そのお宅に伺う事になってしまったのだった。
途中で手土産にお菓子を買ったのに、藤守さんの運転でやって来たのはいつもの居酒屋。
藤守
「小野瀬さんがいるはずやねん」
言葉の通り、入り口で、小野瀬さんが立っていた。
小野瀬
「やあ、来たね」
まさか、小野瀬さんが里親じゃないよね。
小野瀬
「もちろん違うよ。さ、入ろう。中で待ってるから」
ニコニコ笑う小野瀬さんに手を引かれて店に入った途端、私は自分の目を疑った。
なんと、店内はものすごい盛況。
常連客に人気のある店ではあるけれど、今まで、こんなに満席になっているのを見たことが無い。
しかも。
穂積
「いらっしゃいませー!」
入って行った私たちを迎えたのは、フロアにいた泪さんの大きな声だった。
翼
「し」
驚いて叫びかけた私の口を手で塞いだのは、小野瀬さん。
私たち一行は、泪さんが脇目も振らずに忙しく働くフロアを素通りして、奥の、いつもの座敷へと進んだ。
襖を開けると、テーブルの上には鍋や舟盛りをはじめ、豪華な料理が並んでいる。
そしてそこに胡座をかいて座っていたのは、……この居酒屋の、女将さんだった。
翼
「女将さん?!」
女将
「よう櫻井、来たね!あんたの亭主、よく働くよ!」
女将さんはそう言って、豪快に笑った。
座敷に上がると、上座にでんと座っている女将さんに、手招きされた。
慌てて近付いていくと、見慣れた箱が目に入る。
翼
「あっ!」
女将
「櫻井、これ、うちでもらっていいかい?」
その一言で、私は、全てを理解した。
翼
「……!……」
たちまち、涙が込み上げてくる。
翼
「はい!……はい!ありがとうございます!」
女将
「そうかい、良かった。ゆうべ、穂積に電話で打診されてね。わたしは田舎で育ったから、犬の子一匹育てるくらいへっちゃらだって言ったのさ。もちろん、これでも飲食店だから、ちゃんと衛生に気を付けて、大きくなったら外で飼うけどね!」
私は、女将さんに肩を抱かれたまま、ハンカチで顔を覆って、うんうんと頷いた。
如月
「良かったね、翼ちゃん!」
藤守
「うん、うん」
小笠原
「どうして藤守さんが泣くのさ」
明智
「それにしても、室長が接客してるのはどういうわけですか?」
明智さんの問いに、女将さんは肩を揺すって応えた。
女将
「どうって事はないんだけどね。犬を引き取るかわりに、二、三時間働けって言ったのさ。最初は厨房で使おうと思ったら、材料の下ごしらえは知らない、火の番は出来ない、皿を洗わせれば片っ端から割っちまう」
全員
「あー……」
私たちが頷くと、女将さんも唸った。
女将
「しょうがないんでフロアに置いたら、どんな注文も一発で覚えるし、配膳も間違えないし、人当たりはいいし、超イケメンの店員がいるってツィートされて評判になって、あっという間にあの騒ぎさ。……バカとハサミは使いようだねえ」
全員
「あー……」
女将
「ま、犬小屋の材料費ぐらいは働いてもらうよ?もっとも、公務員だから、タダ働きだけどね!ああ、そうそう。この料理はわたしからだよ。翼の歓迎会だ」
翼
「翼?」
女将さんは、仔犬の箱を抱えて立ち上がった。
女将
「この犬の名前さ。穂積に、好きな名前をつけろって命令したんだ」
翼
「好きな、名前……」
真っ赤になる私を豪快に笑いとばし、背中をばんばん叩いてから、女将さんは、箱を抱えて去って行った。
女将
「いつでも会いに来な!」
私はその大きな背中に、深々と頭を下げた。
泪さんが帰宅したのは、間もなく日付が変わる頃だった。
玄関の鍵を開けて入ってきた泪さんは、室内に私と小野瀬さんがいるのを見て、顔をしかめた。
翼
「泪さん……」
小野瀬
「お疲れ、穂積」
不機嫌な表情のまま、靴を脱いで上がってきた泪さんは、私と小野瀬さんの間に割り込むように、どかりと腰を下ろした。
穂積
「……翼に手を出してねえだろうな」
小野瀬
「お前の家で?そこまで命知らずじゃないよ」
穂積
「どうだか」
小野瀬さんをもう一度睨んでから、泪さんは、私を振り返った。
穂積
「……事後承諾になって悪かったな、翼」
仔犬の事を言ってるんだと気付いて、私は、首を横に振った。
翼
「ううん。ありがとう、泪さん。あの女将さんの店で飼ってもらえるなんて、私、すごく嬉しい」
私がそう言うと、泪さんは、ほっとしたような表情を浮かべた。
穂積
「……そうか」
見つめあっていると、不意に、小野瀬さんが、ポケットから何かを出した。
小野瀬
「仲直りだね。これ、無駄にならなくて良かった」
何を、と聞く前に、小野瀬さんの手で、泪さんの首に、赤いリボンがふわりと巻かれた。
穂積
「ん?」
小野瀬
「俺から櫻井さんに、特別なプレゼント」
翼
「え?」
小野瀬
「じゃーん」
差し出されたのは、一枚のコピー用紙。
私と泪さんは、小野瀬さんの差し出したそれを、額をくっつけるようにして覗き込んだ。
それは、泪さんと私宛ての、科警研・小野瀬葵からの捜査協力要請書のコピー。
小野瀬
「これ、本物はもう上に受理されてるから。つまり、きみたち二人は、俺からの要請で、明日の朝八時から丸一日、極秘任務に就くって事」
……ええと……
翼
「何の任務ですか?」
穂積
「小野瀬!」
きょとんとする私の脇で、泪さんが、がばっ、と小野瀬さんに抱きついた。
穂積
「ありがとう!お前、天才!!」
小野瀬
「だろ?」
泪さんに頬擦りされながら、小野瀬さんが私にウインクした。
小野瀬
「バレンタインの日、約束したでしょ?」
バレンタインの日?
ごめんね、櫻井さん。穂積と過ごせたはずの時間を邪魔しちゃって。
必ず埋め合わせはするから。
私は、そう言って両手を合わせていた、小野瀬さんの姿を思い出した。
翼
「あっ……!」
小野瀬
「じゃ、確かに渡したからね」
穂積
「おう」
小野瀬
「おやすみ、櫻井さん。素敵なホワイトデーの夜を」
小野瀬さんは、ちゅ、と私の頬にキスして立ち上がると、いつものように笑顔で私に手を振ってから、帰って行った。