ホワイトデーの夜に
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着いたのは、泪さんのマンション。
私はほとんど抱えられるようにして、部屋に入った。
穂積
「そこにいろ。風呂を入れてくる」
言いながら飛んで来たのは、寝室にあるはずの毛布。泪さんはそれを、頭から私にすっぽりと被せた。
最強にされた部屋の暖房が、ゴウゴウと音を立てている。
翼
「ごめん、なさい」
穂積
「仔犬だって?」
ようやく、泪さんが近くに来てくれた。
私が、震えている仔犬を差し出すと、泪さんは大きな手でそれを受け取って、眉をひそめた。
穂積
「洗ってくるから、このまま抱いてろ。嫌でなければ素肌に抱け」
泪さんはお風呂場に消え、ドライヤーの音を立ててから、戻って来た。
仔犬は、新しいタオルに包まれている。
私はブラウスの胸を開き、そこにタオルごと仔犬を抱いて、毛布にくるまった。
その間に泪さんは空き箱に新聞紙を敷き詰めたり、スタンドライトを持ってきて、箱の中に光が当たるようにしたりして寝床を作る。
それから、仔犬用のミルクを作り、スポイトを使って、器用にそれを飲ませたりした。
ミルクもスポイトも、さっき途中のドラッグストアに寄った泪さんが、私と犬を車に残して、一人で買ってきてくれたものだ。
私はただ、見ている事しか出来ない。
室内と犬の寝床が暖まると、泪さんはそこに仔犬を移した。
排泄させ、新聞紙を取り換えて綺麗にし、身体をさすり、またミルクを飲ませる。
家事以外は何でも出来る人だとは思っていたけれど、仔犬の世話まで出来るとは知らなかった。
そうこうするうちに、ようやく仔犬の体温が安定してきた。
もう大丈夫だからと泪さんに言われ、私は、彼に犬を任せてお風呂に入った。
痺れた手足に、熱いお湯が心地好い。
それでも早目にお風呂を済ませ、最近はこの家に常備するようになった部屋着に着替えて、リビングに戻る。
翼
「どうもありがとう。いいお湯でした」
私は心を込めてお辞儀をしてから、仔犬に合わせてリビングの床に胡座をかいている、泪さんの傍らに座った。
翼
「泪さんは、仔犬を飼った事があるの?」
穂積
「……小学生の頃、二日間だけな」
泪さんは仔犬の背中を撫でながら、呟いた。
翼
「二日間?……それって、」
穂積
「それで、翼。お前は、こいつをどうするつもりだ」
翼
「えっ?」
急に話が変わって、私はびっくりした。
そこまで考えてなかった、というのが本音だけれど、同時に漠然と、拾ったら飼うものだと思っていたから。
翼
「……か、飼えない……かな?」
穂積
「無理だろ」
泪さんは、私の顔も見ずにぴしゃりと言った。
穂積
「俺たちみたいに時間も帰宅も不規則な仕事で、生き物を飼う事は出来ない」
それは、そう、だけど。
穂積
「それに、今は緊急だから連れてきたが、このマンション、ペット禁止だしな。お前の寮だってそうだろう?」
翼
「……うん。……あ、私の実家なら、どうかな?」
穂積
「お前のお母さん、犬を飼った事があるのか?」
翼
「……」
私は記憶を辿って、首を横に振った。
飼った事があるどころか、昔噛まれた事があるとかで、犬が苦手だった事の方を思い出してしまう。
泪さんは溜め息をついた。
穂積
「この犬、生後数日、せいぜい1週間だ。最低でも2~3ヶ月は、今みたいな生活がつづくぞ。ほとんど寝る間もない。人間の子だって一緒だが、こいつには母犬がいない」
翼
「……」
穂積
「お前はその大変な生活を、犬が苦手なお母さんに押し付ける気だったのか」
返す言葉がなかった。
翼
「……じゃあ、どうすれば、いいの?」
穂積
「俺なら、明日の始業を待って、保健所に連れていく」
保健所、と聞いた瞬間、私の脳裏に、子供の頃に見た、野犬収集車の記憶が蘇った。
翼
「いや!」
聞いた事がある。
保健所に収容された野犬は、一定期間留め置かれた後、殺処分されてしまうんだって。
翼
「絶対いや!」
穂積
「落ち着け。生まれたばかりの犬なら、期間中に里親が見つかる可能性が高い」
でも、もしも、飼ってくれる人が見つからなかったら、この仔犬は処分されてしまう。
それに、里親が現れるという事は、この仔犬が、見知らぬ誰かの手に渡ってしまう事を意味する。
翼
「そんなのいや……」
せめて、知っている人に飼って欲しい。出来ることなら、いつでも会える場所に。
穂積
「……苦労は人任せにして、好きな時だけ可愛がりたいのか?それは、お前のエゴだぞ」
泪さんの言葉は真実だけど。
穂積
「最後まで守れないなら、手放すしかない。こいつの命を預かる資格は無いんだよ。お前にも、もちろん俺にも」
私は涙を堪えて叫んだ。
翼
「だって、飼いたくても飼えないんだもん!しょうがないじゃない!」
泪さんは一転、諭すように話し始めた。
穂積
「本当なら、母犬が死んだ時点で、こいつの命運も尽きたんだ。だが、お前が拾ったから、こうして生き長らえた。お前は出来るだけの事をした。それで充分じゃないか」
翼
「私は拾って来ただけだよ。命を救ったのは泪さんだよ。せっかく助けたのに、すぐに殺されちゃうかもしれないなんて。……だから、私は、何か……でも……」
自分でも、もう、何を言いたいのか分からなくなってきた。
穂積
「……翼、分かったから、落ち着け。今夜はもう寝て、明日、貰い手を探してみよう。それからでも」
おそらく、慰めてくれようとしたのだろう。泪さんの手が肩に乗せられた。
翼
「分かってない!」
私は次の瞬間、その手を払い除けていた。
穂積
「……!」
泪さんの傷ついた表情を、私は見ないふりをした。
翼
「泪さん、寝室で寝て。この子、私が見てるから。出来るから」
さっきの毛布をかぶり、犬の入った箱をテーブルに置く。
私はその横に肘をついて、犬を見つめた。
穂積
「……」
泪さんはしばらく立ち尽くしていたけれど、やがて、静かに寝室に行ってしまった。
扉が閉まる直前、「おやすみ」と言われた途端に涙が出た。
……どうして、こうなっちゃったんだろう。
幸せな夜だったのに。明日はもっと幸せな日になるはずだったのに。