ホワイトデーの夜に
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小野瀬
「穂積、もう配り終わった?」
穂積
「終わった。それぞれの部署の女性職員に、適当に分けてくれって頼んで置いて来たよ」
小野瀬
「そっか。大変だったね」
穂積
「お前ほどじゃないけどな。それより、資料ありがとう」
二人は、さっき小野瀬さんが持ってきた資料の話を始めた。
翼
「……あの、私も、お先に失礼します」
泪さんとは、明日の夜、二人で一緒に過ごす約束をしている。
今日は私ももう帰ろう。
翼
「お二人とも、お疲れさまでした」
身支度をし、少し離れた場所から声を掛けると、二人が振り向いた。
小野瀬
「ひとりで帰るの?」
翼
「まだ九時を少し過ぎたばかりだし、全然平気です」
穂積
「駅まで送って行く」
泪さんが立ち上がって、コートを手にする。
私は慌てた。
翼
「大丈夫です。室長、まだお仕事が残ってるんだから」
穂積
「だから駅まで、だ」
翼
「でも」
私は、ちらりと小野瀬さんを見た。
小野瀬
「送らせてあげて、櫻井さん。きみをひとりで行かせたりしたら、穂積は仕事が手につかないよ」
笑う小野瀬さんの横で、泪さんは顔を赤くした。
穂積
「うるせ。行くぞ!」
照れ隠しなのか、怒ったように言い捨てて、泪さんはどんどん先に出て行ってしまった。
翼
「あ、待って下さい!」
私は急いで後を追う。
振り返ると、小野瀬さんはいつものように楽しそうに笑いながら、私に手を振ってくれていた。
翼
「し……泪さん」
庁舎を出た所で足を止めて、泪さんは私を待ってくれていた。
穂積
「寮まで送ってやれなくて、悪いな」
翼
「ううん。お返しに時間を取られちゃったもんね。お仕事忙しいのに、私こそごめんなさい。ありがとう」
職場を離れれば恋人の関係に戻るのにも、最近は、だいぶ慣れてきた。
並んで歩き出すと、夜空は冴えざえとしていて、冷気が肌を刺すよう。
それでも、春の気配が近付いているのは、ほころび始めた桜の蕾を見上げれば分かる。
駅までの道のりはあっという間で、私は街灯の下に差し掛かると、泪さんを見上げた。
翼
「ありがとう、ここで大丈夫。だから、泪さんはもう戻って?」
穂積
「見えなくなるまで見てる」
……そんな事言われたら。
私は俯いて、泪さんの手を握り締めた。
泪さんが、その手を自分の方に引き寄せる。
街灯の明かりから一歩離れただけの暗がりで、私たちは唇を重ねた。
翼
「……離れたくなくなっちゃう」
返事の代わりに、もう一度、泪さんは私をうっとりさせるようなキスをしてくれた。
離れ際、伏し目がちに私を見つめる瞳は熱っぽくて、どこまでも優しい。
私は胸がどきどきして、もう動けなくなってしまった。
それが恥ずかしくて、思い付きの言い訳をしてしまう。
翼
「あの、今日は、私が泪さんを見送りたいの。だから、引き返して下さい、ね」
穂積
「……分かった」
くすりと笑う泪さんには、きっと全てお見通し。
それでも、この先はすぐ賑やかな駅前通りだし、心配ないと思ってくれたんだろう。
泪さんは踵を返して、今来た道を戻り始めた。
一度振り向いてくれたので、街灯の下で大きく手を振る。
それに軽く手を振り返してから、泪さんは今度こそ完全に背を向けて、去っていった。
泪さんの姿が見えなくなるまで見送って、私は、緩む頬を押さえながら、ひとり、駅への道を歩き出した。
その時。
不意に、傍らの路地で何かが動いた気がした。
ふわふわしていた気持ちが一気に引き締まり、反射的に身構える。
翼
「誰っ?」
けれど、暗がりから私の足元にもそもそと這い出して来たのは、何か、白っぽい生き物だった。
翼
「……?」
仔犬?
それは、生まれたての、小さな小さな犬だった。
恐らく、まだ目もよく見えていないのだろう。
もたもたと車道の方へ行きそうになるので、私は急いで、それを拾い上げた。
泥と埃で汚れていたけれど、とりあえずハンカチでくるみ、コートの中に入れてから腕に抱く。
改めてその仔犬が出てきた路地を覗いてみると、狭い隙間の奥の方で、母犬らしい亡骸が横たわっているのが見えた。
狭くて入ってはいけないけれど、どうやら、他に動いている物は無い。
念の為に携帯のライトで照らしてみたり、そっと小石を投げ入れてみたりしたけれど、反応はなかった。
溜め息をついて、私は、抱えている仔犬を見つめた。
小さすぎて種類は分からないけれど、短毛で、柴犬のようにも、チワワのようにも見える。
ふるふると震えている、小さな命。
翼
「……どうしよう……」
こんな生き物を拾った事の無い私は、すっかり、途方に暮れてしまった。
小野瀬
「……いつものバーでいい?」
穂積
「軽く一杯だけだ、どこでもいい」
小一時間後、私がとぼとぼと警視庁に戻ると、駐車場の方から、二人の声が聞こえてきた。
さっき別れたばかりの人たちの声なのに、嬉しくて、私は涙が出そうになった。
翼
「泪さん……小野瀬さん」
自分の声とは思えないほど、凍えて掠れた声。唇が思うように動かない。
一拍置いて、暗闇から、凄い勢いで泪さんが私の元に走って来てくれた。
穂積
「翼!お前、帰らなかったのか?」
私が震えているのが分かったのか、泪さんはすぐにコートを脱いで、私に羽織らせてくれる。
翼
「あ、の後、仔犬を拾っちゃ、て。それで」
小野瀬
「仔犬?」
泪さんの肩越しに、小野瀬さんが私の胸元を覗き込んできた。
小野瀬
「おや、羨ましい場所にいるな、ぁっ!」
泪さんの肘鉄が、鈍い音とともに、小野瀬さんの顎を後ろに撥ね飛ばした。
穂積
「お前、真っ青じゃないか!とにかく車に乗れ!」
泪さんに引っ張られるまま駐車場に入り、乗り慣れた助手席に押し込まれる。
車内はもう暖房が効いていて、私は手足の先から生き返る思いがした。
穂積
「小野瀬、悪いな。バーは延期だ」
小野瀬
「了解。櫻井さん、はい。これあげる」
小野瀬さんが、助手席の窓から私に手渡してくれたのは、ブラックコーヒーのデミタス缶。
おそらく自分の為に買って持っていたのだろうその缶は、ほどよい温もりになっていた。
私はそれを、仔犬とともに胸に抱いた。
翼
「ありがとうございます、小野瀬さん」
小野瀬
「どういたしまして。俺も缶コーヒーになりた……いっ!」
小野瀬さんの顔が、急に上がったパワーウィンドウに挟まれそうになる。
間一髪、顔を引いた小野瀬さんは、私の背後の運転席にいる泪さんをじろりと睨み付けた。
穂積
「じゃーな」
小野瀬
「ちぇっ……はいはい」
翼
「あのっ、ありがとうございました!」
私のお礼に対する小野瀬さんの返事を待たずに、車は急発進した。