女心は秋の空
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小日向
「櫻井さん、申し訳ありませんが、用事があるので、今日はお先に失礼します」
終業時刻になって間もなく、小春ちゃんが、私の席まで来てそう告げた。
小春ちゃんの仕事は完璧に終わっているし、彼女に今夜先約がある事は、今朝、泪さんが言っていたから、みんなが知っている。
室長への連絡も済んでいるのなら、止める理由は何もないので、私は笑顔で頷いた。
翼
「お疲れ様。気を付けて帰ってね」
小日向
「はい。今日はスリと遭遇しないよう、気を付けます!」
真面目な顔で敬礼した後、小春ちゃんはいつものようにニッコリ笑ってから、帰って行った。
しばらくして、私も帰宅しようと廊下に出たところで、タイミング良く、廊下の向こうから、会議を終えた泪さんが戻って来るのが見えた。
泪さんと話すチャンスが訪れたのは、久しぶり。
私は足を止めて、泪さんを待った。
翼
「室長、お疲れ様です」
穂積
「ありがとう。アンタは?まだ仕事?」
翼
「終わりました。これから、帰ります」
それなら一緒に帰りましょう、という言葉を期待したけど、泪さんは腕時計を見て、軽く、溜め息を付いた。
穂積
「それなら一緒に帰りましょう……と、言いたいところだけど、思ったより会議が早く終わったわ。これなら、間に合っちゃう」
翼
「?」
首を傾げる私に、泪さんは説明を始めた。
穂積
「今日は、☆☆ホテルで、異動する同期の激励会なのよ」
翼
「ああ……それじゃ、遅くなりますね」
穂積
「朝まで飲むかもしれないわ」
翼
「そうですか……」
今度は私が、大きな溜め息をつく番だった。
ふと、泪さんが、長身を屈めた。
穂積
「……なんだ、部屋で待っていたかったか?」
普段、オカマを装っている裏声とは違う、恋人の時の泪さんの声。
私だけが知っている声。
その、甘い低音でゆっくりと囁かれて、息を吹き込まれた耳が熱くなる。
穂積
「じゃあ、お前とは、明日、な」
明日、と言われただけで、もう、身体の芯が疼くようだった。
まだ仕事場の廊下なのに、なんてアブナイ声を出すのかしら、この人は!
これ以上、近くで息遣いを聞いていたら、頭も、身体も、おかしくなりそう。
翼
「お先に失礼します!」
私は回れ右をして、泪さんに背を向けると、早足で彼から離れた。
泪さんの楽しそうな笑い声が、廊下に響きながら追いかけてくる。
私はそれから逃げながらも、胸のときめきと、にやけてしまう口元をおさえる為に、必死にならなければならなかった。
翼
「はあ……」
やっとの思いで警視庁を出て、地下鉄の入口がある大通りまで来て、私は胸を撫で下ろした。
これだから、年上の恋人は困る。
冷静に考えれば、泪さんのような、桁外れに素敵な大人の男性が、私みたいな、普通の女の子を好きになってくれている事自体、奇跡のようなものなんだけれど。
……でも。
明日になれば、その奇跡を実感できる。
仕事を早く終わらせて、夕飯の材料を買い揃えて、泪さんのお部屋に行こう。
この前、お泊まりしたのはいつだっけ?
泪さんはお掃除が苦手だから、きっと散らかってるだろうな。
もらった合鍵でお部屋に入ったら、まずは脱ぎっぱなしの衣類を拾い集めて、洗濯機を回したら、お掃除をして、お風呂を入れて……けっこう大変かも。
だけど、帰ってきた泪さんはいつも、心を込めて「ありがとう」って言ってくれるの。
だから、私は……
気の早い事を考えながら歩いていた私は、ふと、通りの向こう側にある、☆☆ホテルの入口に視線を奪われた。
ほとんど無意識に、そこに、見覚えのある人の姿を見つけたのだ。
記憶力には自信がある。
普段と違うメイクをして、趣味の良い装いを身に付けて、スニーカーではなくパンプスを履いて、気後れする様子もなく高級ホテルへ入って行ったとしても。
小春ちゃんを見間違えるはずがない。
そして。
車道を走って来て、左折のウィンカーを出した車が、一瞬で、地下の駐車場に入って行ってしまったとしても。
泪さんの車と、運転席に見えた横顔を、見間違えるはずがなかった。
でも、理解出来るかどうかは違う。
私は、しばらく、立ち尽くしていた。
ホテルの、大きなガラス越しに見える、広いロビー。
そのソファーで寛いでいた小春ちゃんが、誰かに呼ばれたように振り向いて、立ち上がる。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
鼓動が叫んでいる。
逃げ出してしまいたい、のに、足が、動かない。
小春ちゃんの横顔が、大人びた微笑みをたたえている。
歩み寄ってきた人を迎えて、その頬は綻んで、いつもの、花のような笑顔になる。
その笑顔を向けられたのは……泪さん。
二人は親しげに言葉を交わして、私に背を向けた。
足が震えて、立っていられない。
並んだ二人の後ろ姿が視界から消えないうちに、私は走り出していた。
どうして?どうして?どうして?
早鐘を打つ鼓動がおさまらない。
とにかくその場を離れたくて、私は、夢中で走り続けていた。