バラの花を買って帰ろう
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それは、午前中の外回りから戻って、そろそろお昼休みに入る、という時刻になった頃。
席に着くと、引き出しの中で、私の、プライベートの方の携帯電話が震えていた。
引き出しをそっと開け、マナーモードにしてあった携帯電話で着信者の名前を確認した途端、私は、小さく声を出してしまった。
翼
「えっ?」
着信は、お父さんからだった。
私のお父さんは厳格な仕事人間で、たとえ休憩時間や外出中だったとしても、私の勤務時間中に電話をかけてくる事など、今まで、一度も無かった。
そのお父さんからの着信。
私の心拍数は、一気に上がった。
何か起きたんだ。
そうでなければ、お父さんが、突然私に電話をしてくるなんて、有り得ない。
いったい何だろう?
困惑しているうちに、携帯電話のバイブレーションは止まった。
穂積
「櫻井、どうかした?」
不意に背後から掛けられた声に、泣きそうな思いで振り返る。
そこにいたのは、私の勤めるこの緊急特命捜査室の室長でもある、泪さんだった。
私の様子がおかしい事に気付いて、咄嗟に室長席を立って、ここまで来てくれたんだろう。
いつもなら、彼の慧眼や聴覚の鋭さに驚くところだけど、今は、それよりも、お父さんからの急な電話に動揺していた。
すぐには返事が出来ないでいると、泪さんは、引き出しの中の携帯電話を見て、くん、と、顎を動かした。
穂積
「急用かもしれない電話なのね。かけ直していいわよ」
既に、着信相手の名前表示は消え、着信があった事を示すライトだけが明滅している。
たったそれだけの情報と、私の表情を見て、冷静に瞬時の判断をしてくれる彼の洞察力が、有り難かった。
穂積
「お父様?お母様?」
翼
「父です」
泪さんの眉が、ぴくり、と動いた。
穂積
「すぐに、かけ直しなさい。ワタシも、ここで聞くから」
翼
「は、はい」
泪さんの手が、そっと、私の背中に添えられた。
彼と私は婚約している仲とはいえ、また、職場にはその事を知らせていない。
明智さん、小笠原さんといった、他のメンバーもいるこの状況で、室長である泪さんが、こんな風に私に触れる事は、滅多に無い事だった。
つまり、それほど、お父さんからの電話は、泪さんにとっても意外なものであり、今の私の表情が、切羽詰まったものに見えている、と、いう事なのだろう。
着信履歴を開くと、お父さんからの着信は、今の一度だけではなかった。
私の不安は、それを見て、さらに増してしまう。
穂積
「お母様に、何かあったのかもしれないわ」
どきりとした。
お母さん。
今朝、電話で話したばかりなのに……そう思ったのと、ほとんど同時に、忘れてきたお弁当の事を思い出した。
今は、6月。
しかも梅雨時だ。
食中毒、という単語が、脳裏を過った。
翼
「わ、私、今朝、お弁当を、玄関に忘れてきたんです。母が、それを、お昼に食べてくれると言ってて、だから、もしかして」
明智
「食中毒か」
私たちの会話を、少し離れた自分の席から聞いていた明智さんに、思った事を言い当てられて、やっぱり誰もがそう思うのか、と、血の気が引きそうになった。
翼
「そうだったら、どうしよう……」
穂積
「櫻井、落ち着いて」
添えられていた泪さんの手が、ぽん、と、私の背中を軽く叩いた。
穂積
「落ち着いて、お父様にかけ直しなさい」
明智さんから視線を戻して、泪さんを見上げると、彼は私と目が合った瞬間、ふ、と微笑んだ。
穂積
「大丈夫よ。意外と、大した事じゃない用事だったりするかもしれないわ」
翼
「でも……」
穂積
「冷静になりなさい。今のアンタに一番効くのは、お父様の声よ」
……すとん、と納得出来る言葉だった。
この捜査室でも、以前、冷蔵庫が壊れたせいで、集団食中毒が発生した事がある。
私自身も激しい嘔吐と腹痛に襲われ、涙と冷や汗が止まらなかった。
救急車が来てもトイレから出られず、泪さんに背負ってもらって、ようやく緊急入院出来たほどだったのだ。
正直、ちょっとトラウマになっている。
実際に食中毒を経験しているばかりに、真っ先に、その時の恐怖が頭の中を占めてしまった。
でも、泪さんの言う通りだ。
今はまず、お父さんに聞かなくちゃ。
まだ、何も分からないんだから。
穂積
「大丈夫」
泪さんの手が、ゆっくりと背中をさすってくれた。
口調はおネエだけど、毅然とした声。
温かくて、大きな手。
自ら「職場ではワタシがお父さん」と言ってくれる泪さんの確かな温もりを感じ、電話の向こうにいるはずのお父さんの、いつもの厳格な表情を思い浮かべて、私の心は、ようやく、落ち着き始めた。
翼
「そうですね……そう、ですよね」
たとえ何かが起きたとしても、泪さんと、お父さんがいてくれたら、絶対に大丈夫。
私は深呼吸すると、携帯電話を手に取った。
翼
「お父さんに聞いてみます」
声に出すと、力が湧いてくるような気がした。
泪さんが、笑顔を浮かべて、小さく頷いてくれる。
傍らに立つ泪さんに見守られながら、着信履歴からお父さんにかけ直すと、向こうも待っていたのか、電話はすぐに繋がった。